私はあと一月ほどで満71歳になります。満61歳の誕生月に定年になっていますから、定年からちょうど10年たったことになります。この10年間に四冊の本を出版、そのうちの一冊は大作です。現在、毎週日曜日にブログを更新して8ヶ月目。要するに定年後の生活は、執筆活動を中心にしておくっているわけです。このような執筆活動中心の生活をおくるなど現役時代に予想するどころか夢想すらしなかった生活です。私自身、自分で自分の現在の姿を全く信じられない気持ちで眺めています。 なぜなら私は高校卒業まで作文が好きだったわけでもなく、ましてや自分の作文が先生にほめられたことなどありません。高校卒業後すぐ社会人として働きだしたわけですが、それから定年直前まで日本語の文章などほとんど書いたことがないのです。日記すら生まれてから現在まで書いたことがありません。ガールフレンドに手紙ぐらい書いているのでしょうが全く記憶にありません。忘れてしまっているのでしょう。それくらい文章など書いたことがない男なのです。 私が21、2歳の時、ひょんなことで外資系の会社に就職、以来外資系五社をわたり歩いてほぼ40年です。色々な仕事につきましたが、営業畑が多かった。営業報告書、出張報告書、取引先と重要な会議をやればその議事録など、いわゆるビジネスレポートを書く必要があります。外資系のためそれらビジネスレポートは全部英文で書くことが当時絶対条件でした。 従って日本文を書くどころか何十年間にわたって英文のレポートばかり出していたから、漢字の綴りを忘れるのがはげしくて悩んでいたくらいです。なにしろ漢字を書くのは、年末の年賀状書きだけぐらいという状態でした。現在のようにパソコンでもあれば日本語の文章をネット上にちょくちょく書くという経験もするでしょう。しかし私の若い時代にはパソコンなんかありません、本当に仕事で日本語の文章を書く機会がなかった。新聞や雑誌へ投書もしたことがありません。 西尾幹二先生にこのことを話すと、「若い時から沢山書いていたから、文章が上手に書けるようになった人もいるし、若い時いくら沢山書いても上手にならない人もいる。全然書いたこと無くても書き出したらすばらしい文章を書く人いる。文章力というのはそういうものだ」 沢山読書しているからと言って立派な文章が書けるわけでもないことから言っても、立派な文章を書くにはなにか得体のしれない感性が必要なのかもしれません。私自身は、自分には文才などなにもないと思っていたし、またそれだからこそ新聞や雑誌に投稿しようとする意志すらなかったのでしょう。 そういう私がなぜ定年後に書き出したか。その理由は私の怒りです。社会的怒りとか社会的義憤と言ってもいいかもしれません。私は怒りを人一倍感じる方です。だから正義感が人一倍強い。若い時は、目の前で不埒なことをしていると黙って見ていられない。そのためたまに外で他人とケンカ腰になります。私は腕には自信がありません。しかし足が速いのが自慢です。いざけんかとなったら先に男の急所を蹴り上げて逃げる。これを絶えず頭にぶちこんでいれば、自然と体が反応して相手の急所を先に蹴り上げるはずだ。そう自分にいいきかせていました。だから不埒な男に文句を言う時は、「先に急所を蹴り上げる」を自分の頭に呼び起こしておいて、相手を脅かすために、いきなり相手を威圧する言葉を切り出していました。幸い大喧嘩になることはありませんでした。 私は定年間際になにに怒りを感じて本を書き出したか。それは「大東亜戦争は、アメリカが悪い」の前書きにも書きましたが、定年間際、定年後は何をしようかと考えあぐねている時に、当時東京教育大学名誉教授、家永三郎が書いた「太平洋戦争」を読んだからです。家永はこのころかなりの有名人になっていました。長年にわたって文部省と裁判沙汰を起こし、「教科書裁判」と呼ばれていました。長期にわたって裁判争いできたのは、日教組の資金援助があったからです。朝日新聞は家永を権力に挑戦する英雄のように扱っていました。 家永の「太平洋戦争」を読んで驚愕しました。これが日本で著名な歴史家が書いた大東亜戦争か。戦争するには相手国が必要だ。その国との外交的関わりがあります。それにもかかわらず徹底した日本批判です。家永が戦前は、自虐史観とは全く別の皇国史観を生徒に教えていたのです。家永の教科書の弱点や人間性の欠陥は、秦郁彦氏の著「現代史の争点」で指摘されています。家永は日本の歴史家の中でも外国で最も知られている歴史家です。彼の「太平洋戦争」が英語に翻訳されているし、文部省相手に長年裁判で戦っていることが海外にも伝わっているからです。家永は、ノーベル平和賞の候補の一人に推薦されていました。 家永は、勝利国の人たちを満足させる太平洋戦争史観を書いただけなのです。こんな歴史家を英雄のように扱ってたまるかという怒りがわいたのです。一介の定年サラリーマンが家永のような著名な歴史家の歴史観に挑戦するのも悪くないだろうと考えて書き出したのです。その時期私は自分史「ある凡人の自叙伝」を自費出版していました。それだからと言って自分に文才などあるなどとは思っていませんでした。内容は自分の思い出を書くだけだし、第一自分史を書いた人などくさるほどいるからです。 自分の大東亜戦争史を書き出して、自分には手におえないものとわかれば書くのを辞めればいいだけです。確かに書いている途中、自分の能力以上のものに手をだしているのではないかと思ったこともありました。また途中自律神経失調症にもなりました。夜中に二度、三度とパジャマがびっしょりなるくらい寝汗を書くのです。心配になって病院で色々検査しても異常なし。医者がなにかストレスがかかっているものないかと聞くから、本を書いていますと答えました。多少ゆきづまっている箇所もある、それがストレスになっているかもしれないとも言いました。医者はそれだ。ストレスが原因だと言いました。ストレスとわかったらあっさり直ってしまいました。結局、本完成までに6年かかりました。 本のタイトルは、「大東亜戦争は、アメリカが悪い」と決めました。出版して一年ぐらい経った頃には、一面識もない人から手紙や葉書で絶賛、友人や知人からの絶賛もありました。改めて自分で自分の大作の本を眺め、「よくこんな大作が書けたものだと」自分でびっくりしていると同時に「俺にも文才が少しはあるのだ」と初めて自分の文才というものを意識しました。それから立て続けに二冊の本を出版しました。ここで初めて、私の文才がすばらしいものか、あるいはたいしたものではないかもしれないが、とにかく私には文才があると認識したのです。 ところが先週のブログに書いた坦々塾の会合の時、西尾幹二先生は私にこう言ったのです。 「あなたのこれまでの本は、他人の書いた本や史料を読み漁ってまとめたものでしょう。これから自分の世界を書きなさい。ノンフイクションでもなんでもいいから自分の世界を書きなさい。そうすれば、あなたの筆力にはすばらしいものがあるから、すぐに何か賞が取れますよ。なにか賞一つでもとれば文筆業もやりやすくなりますよ」 西尾先生は子どもの時から日記を書いています。そして大変な数の著作があります。その西尾先生が、「あなたの筆力はすばらし、あなたの世界を書きなさい」と言ってくださるのだ。ふりかえれば私は自分にはなにも才能などというものはない、ただ「負けてたまるか」というすさまじいばかりのハングリー精神だけを頼りに生きてきただけです。外資系五社渡り歩いたせいもあるのでしょう、私には愛社精神のつめの垢ほどもない、仕事など誇りに思ったこともなければ、生きがいに感じたこともありません。ただ与えられた仕事ができただけ、高給さえとれればそれでよかったのだ。ただただ家族を養う生活のための仕事だったのです。それが定年数年後になって初めて自分にも得意とする分野の仕事があったのだと悟ったのです。 私の同僚にはこういう例がありました。私が48歳の時、勤めていた外資系会社が希望退職を募った。私はそれに応じて退職した。私の同僚の女性、その時彼女は私より一回り下の36歳だった。彼女の仕事は、外人ボスの秘書。英文速記をとれるから英語には強かったし、仕事ぶりもすばらしかった。彼女は、しばらく子育てに専念すると言って希望退職に応じて退職した。その後40歳過ぎてから職探ししたが、自分の希望する仕事が見つからず、だからと言って就職しないわけにもいかず、こんな仕事でもできるだろうと思って就職した会社が保険会社。生命保険を売る仕事をしたのです。 生命保険のセールスが彼女に最適の仕事だったのだ。彼女もこんな仕事が自分に適しているなんて夢にも思わなかった、とにかく秘書だった時よりはるかにやりがいがあると言うのです。その後彼女は数年にして営業セールスレデイーの最高責任者になっていました。 彼女は秘書という仕事に満足していて、自分に適した仕事だと思っていたのです。ところが希望退職に応じて、転職したところ彼女は、秘書以上に生きがいのある仕事を見つけたのです。 私は定年後。自分に文才のあるのを発見したことになります。しかしよく考えてみると実に恐い話です。定年間際に家永三郎の書いた「太平洋戦争」を読まなかったら、私は本を書く決意をしたでしょうか、あるいはこの本をもっと若い時、例えば50歳ぐらいの時に読んでいたら、定年になったら書いてやろうと思ったでしょうか。たまたまタイミングよく定年後に何をしようか悩んでいた時に読んだからこそ本を書く気になったのだ。要するに私は、自分に文才があるのを気づかずに老いて死んでいく可能性も非常に高かったわけです。それだから恐い話だというのです。こう考えると昔のことを思いだしてしまいます。 私は若い時、女性にもてた。(年寄りの自慢話として理解してください)私の40歳前後は、仕事の延長で銀座、赤坂、六本木のクラブやスナックを出入りしていました。普段もてる男が、ホステスさんたちの常連客になったのです。そのもてぶりを想像してみてください。ある年バレンタインデイがやってくるとあちこちのホステスから義理チョコが沢山送られてきて会社の評判になったことがあった。チョコレートの包みをあけると彼女たちからの、短い手紙、長い手紙、きれいなメモ用紙に書いた簡潔だが意味深なメモ、こういう手紙類を読むのは楽しいものだ。すべて本音が書いてあると思うほどうぶではなかったが、なにしろ気分を害することなどなにも書いていないのだ、気分が悪くなるわけがない。 この頃私はどんなにホステスと仲良くなっても一線を越えてはならないと堅く決心していました。彼女たちと遊ぶと大変なお金がかかる事も知っていたし、自分は貧乏人の出だ、さいわい貯金も少しできてきた。高給もとっていた。しかしここでお金を浪費しては、いままでの苦労が水の泡になる。この頃の私の自己管理能力は抜群でした。私があまり酒を飲めなかったのも幸いした。酒が原因の失敗談がなかった。「据え膳食わぬは男の恥」というが、恥をしのんで逃げ出したこともあった。あの時私が自分用の特別の彼女を作って遊んでいたらいまの生活はない。定年前に借金をすべて返済できず、定年になっても働く先をみつけねばなりません。自費出版どころか執筆活動もできず、私は自分に文才のあることも知らずに年老いて死んでいったかもしれないのだ。人生とはわからないものだ。 西尾先生が語ってくれた「あなたの世界を書きなさい、あなたの筆力にはすばらしいものがある」、この言葉は本当にうれしいかぎりです。71歳にしてまだ夢が描け、それにむけて邁進できるのだ。いずれそのうちに書くテーマを決め私の世界を書こう。「俺はやってやる」 ブログランキングに参加しています。応援クリック御願いします。
保守言論界の大御所ともいうべき西尾幹二氏が主宰する会に坦々塾という勉強会があります。この会には錚錚たるメンバーが多く、現在大活躍されている評論家、宮崎正弘氏、「新しい歴史教科書を作る会」副会長で高知大学名誉教授の福地惇氏を初め現役の大学教授や元大学教授、元大使や、元自衛官幹部など高級官僚、すばらしい経歴を持つ現役者や定年退職者、若い人では現役の大学院生など非常に幅ひろい分野の人々がこの坦々塾を構成しています。私はこの会の文字通り末席を汚しております。坦々塾の勉強会は、三ヶ月ごとに開かれ、先々週の土曜日(6月6日)に第14回の坦々塾の勉強会が開かれました。 その日私は、塾長の西尾幹二先生、ゲスト講演者の石平先生に混じって講演をいたしました。三人合計の講演時間4時間半。勿論講演の前座は私が勤めました。私の演題は、私が昨年三月に出版した「逆境に生きた日本人」です。坦々塾が開かれる前に会の事務局から西尾先生の手紙がメールで各会員に転送されてきます。その手紙の中で「逆境に生きた日本人」について西尾先生は、こう書いてくれました。 「坦々塾のメンバーのお一人である鈴木敏明氏の「逆境に生きた日本人」は大変な力作で、かねて感服して拝読してきました。日本人の社会集団特有の政治権力に対する弱さ、曖昧さ、卑怯な自己変更がテーマです。 鈴木氏は日本の戦後の屈服、アメリカにおける日本人強制収容所の二世のアイデンティーの危機、シベリア捕虜強制収容所内の日本人の自我の弱さからくる悲喜劇、そしていわゆる「自虐史観」は日本民族の資質が生んだ生得の欠陥である所以を説いておられます。 鈴木氏の労作は日本人が見たくない苦い真実を次々と暴いていきます。もういい、これ以上知りたくないと思うくらいリアルな心の現実を見せつけてくれます。日本人というものをどう考えたらよいかという哲学的な反省をわれわれに迫る書です。今回はこの本のテーマに触れ私も思うところを語ってみたいと考えています。 加えてもとよりのこと、鈴木氏ご自身にも同主題について一席のご講和を寄せていただきたいと願っております。」 私の講演後、西尾先生が私の講演内容を引き継ぐ形で、演題「複眼の必要――日本人への絶望に踏まえて」を基に講演、最後に当日のゲスト講演者は、石平先生が演題「中国の崩壊と日本の備え」を基に講演をいたしました。三者の講演の概略に関しては、坦々塾の名の下にブログを開きますと、会員参加者の感想文が記載されておりますので、それを参照していただければと思っております。 講演会後は懇親会、懇親会後は二次会でカラオケでした。西尾先生の歌の特徴は、高音です。年寄りなら誰でも知っている「イヨマンテの夜」を声量たっぷり歌いこんでいました。先生は私より三歳上の先輩です。年をとると声量が弱くなるのですが、あの声量を聞くとまだまだ西尾先生は元気です。石平先生もジェスチャーたっぷりの歌いぶり、歌好きであることは間違いない。 この坦々塾のメンバーは、全員で60名ぐらいです。この会の特徴は、会員の紹介で会員になった人はほとんどいません。西尾先生がなんらかの関係で自ら引っ張ってきて会員にさせているからです。皆さんそれを光栄に思って入会してくるだけに熱心な西尾幹二ファンであり熱心な西尾幹二支持者です。私が坦々塾に入会するきっかけになったのが、私の大作、「大東亜戦争は、アメリカが悪い」の縁です。 私はこの大作を自費出版したのは5年前の平成16年7月でした。驚いたことに出版3ヶ月後の10月に千葉県のある保守の団体が私に講演依頼してきたのです。その他いままで一面識もない方からの手紙や葉書の投稿をいただきました。皆さん絶賛してくれたのです。初めて私は自分の本の内容に自信を持ちました。それ以来本の宣伝のために西村慎吾氏のような政治家や著名な知識人には機会がある度に贈呈してきました。 西尾先生は、「新しい歴史教科書を作る会」の創立者の一人であり会長でした。私が「新しい歴史教科書を作る会」に入会した時には、西尾先生は会長職を退かれていました。私は「作る会」の総会に出席しました。総会後に懇親会が開かれます。西尾先生が参加されているのを知りました。なんとか名刺交換してから本を贈呈したいと思っていました。しかし西尾先生は保守言論界では超有名人、いつも誰かと話していて話かけるチャンスがありませんでした。次の年にも総会に出席し、西尾先生のお顔を見ることができましたが、話しかけるチャンスがありませんでした。 一方この本の出版社、碧天社が平成18年3月に破産してしまいました。在庫400冊あまり自分で引き取りました。それでも機会あるごとに知識人にこの本を贈呈してきました。 例えば、講演を聴きに行き、講演後名刺を交換、後で本を郵送したりしていました。 一昨年の「新しい歴史教科書を作る会」の総会にも私は参加しました。総会に連続参加して三回目だったと思います。この時も西尾先生は懇親会に参加していました。立食パーティーの宴もたけなわの頃、料理が並べてあるテーブルには誰もいません。そこへ西尾先生が料理を取りに一人でのこのこ近づいて行くのを見た私は、この時とばかり挨拶を交わしました。「私は西尾先生の読書ファンで先生の本を沢山読んでいます。自分かってに先生は私の師であると思っています。実は、私はこういう本を書いたのです」と言って名刺を見せました。すると先生は自分の名刺を取り出して、「それでは私の所へ郵送してください」と言ってくれたのです。 それから三ヶ月ぐらい経っていたと思います。西尾先生から電話があったのです。西尾先生に自分の本を贈呈したのをほとんど忘れかけていましたから私はほんとうにびっくりしました。「あなたはすばらしい本を書かれましたね。あなたは、私の読んでない本まで読んでおられるので私は勉強させてもらっています。」先生が発したこの最初の言葉だけははっきり覚えています。私はどう返事したのかまったく覚えていません。電話の最後の方で「実は私は坦々塾という勉強会を開いているが、よかったら参加しませんか」という話があり、喜んで受けさせていただいたわけです。 電話が終わった後、私は「やったー」と叫びました。私は沢山の著名人に本を贈呈してきました。代議士の西村慎悟氏のように葉書で礼状をくれた方はまだいい方です。ほとんどの人がうんともすんとも音沙汰なしです。西尾先生だけが、私の大作を読み、評価してくれたのです。その上私が先生に直接言ったように、先生の本の愛読者であり、大学教育を受けていない私には、先生は私の師である思っていましたから、その先生からの評価ですから、喜びが二重になったのは理解していただけるかと思います。なぜ「我が師」なのか、その理由は、先生の本の話しになり長くなるのでここでは省かせていただきます。 西尾先生の若い頃を少し紹介しましょう。先生は東大時代、大江健三郎と同級生です。先生は東大文学部の独文科、大江は東大文学部の仏文科、二人とも大変な秀才だったと聞いています。私の年代で若い時の最大ニュースは、昭和35年(1960)の日米安保条約改定の大反対運動でしょう。大学生、大学の先生、労働組合、日教組、マスコミなどが反米親ソの左翼の集団と化した。30万人のデモが国会議事堂周辺に集まったのだ。私はその時22歳で働いていました。先生は25歳、東大大学院を卒業しているかいないかの頃でしょう。 現在、保守の論陣を張る知識人の多くは、この時左翼化していたり、デモに積極的に参加していた人は多いい。名著「ローマ人の物語」を書いた塩野七生。彼女はなにがなんだかよくわからなかったけど夢中になってデモに参加していたと言う。彼女の正直な気持ちでしょう。学生たちは、よく理解もできずに、ムードに乗って参加していたのではないでしょうか。 西部すすむ(漢字変換ならず)氏は、悪名高き全学連の執行役員でした。新しい歴史教科書を作る会の会長、藤岡信勝は共産党員だった。 この時期、西尾先生が属する東大自身が左翼の巣靴となり、学生も先生たちも西尾先生の同僚も左翼化、その中で保守の孤高を貫くのは大変だったと思います。皆に軽蔑されたり、からかわれたりいやな目にあっているでしょう。西尾先生は最後まで保守の孤高をつらぬき、左翼の考えや行動を批判してきた。 昨年の坦々塾の会合の時、先生は、先生が29歳の時、ある雑誌に載せて新人賞を受賞した論文のコピーを会員一人ひとりにくばりました。論文のタイトルは、「私の『戦後』観」。現在私が読んでも納得のいく論文内容です。しかし先生は言った、「私はこの論文で東大文学部教授への道を棒に振った」。東大と先生では歴史観が違うのです。 上記の二つの件でわかるように西尾先生は、時流や時勢に媚びず、権威にも媚びず自分の信念を押し通す人だと理解できるでしょう。実はこういうタイプの知識人は、日本では非常に少ない。それどころか日本の知識人は、自ら率先して時勢、時流、権威、権力に媚びるのです。(私のブログ記事「日本の知識人は、バカやアホが多いい」を参照) 実は私はしがない一定年サラリーマンですが、私も信念を貫いて生きてきたと自負していますので西尾先生とは共通したところがあると自分では思っています。 最後にいままで私は自分のブログに私の著書を、(著書と言ってもわずか四冊ですが)宣伝したことありません。そこで本日は私の著書の宣伝をさせていただきます。 1.「ある凡人の自叙伝」 自費出版図書館編集室 平成11年出版 私は定年サラリーマンでも非常に波乱万丈の人生をおくってきました。功成りとげた定年サラリーマンの自分史は、自慢話が多くてまったくおもしろくありません。私の赤裸々な波乱万丈の人生の話なら面白いだろうと書いて見ました。定年直前の私は、窓際族みたいなもの、定年前から会社内のパソコンを利用して書いていました。平成11年の8月末に定年になりましたが、その年の12月には出版していました。100部の限定出版。友人、知人、身内に配りました。大好評でした。 出版から8年後の平成19年に出版社、飛鳥新社から電話がかかってきました。飛鳥新社で出版している中高年男性用の月刊誌、「dankai パンチ」12月号(週刊誌サイズ)に特集で「自分史の書き方」を出す。参考に自分史三冊をとりあげて記事にする。その一冊に私の「ある凡人の自叙伝」が選ばれた。だから出版社に来てインタビュイーと写真を撮らせてくれとの要求でした。 「ある凡人の自叙伝」は自費出版図書館編集室から出版されています。館長の伊藤氏は、自費出版図書館を経営し、その図書館には全国で自費出版された本、二万冊の蔵書があります。その伊藤氏が出版社、飛鳥新社に面白そうな本を数冊推薦したそうです。その中の一冊に私の「ある凡人の自叙伝」が含まれていたのです。私はなんとか90歳まで生きて、定年後の30年間の生き様を加えて「ある凡人の自叙伝」を完結するつもりでいます。 2.「大東亜戦争は、アメリカが悪い」 碧天社 平成16年出版 私の定年後の人生の進路を決定づけた本になりました。大型サイズA5版 735頁の大作です。碧天社と自費出版契約を結びました。契約の要点は次の三つです。 (1) 初版千部出版、その出版費用250万円、著者全額負担。 (2) 初版千部以上、5万部売れようが100万部売れようが出版費用はすべて出版社負担。 (3) 印税は定価の8パーセント。本代は一冊1500円。 本屋の店頭に置いてもらうため私は、東京、神奈川の首都圏の大型書店に飛び込みセールを始ました。この本、予想外に売れました。初版千部半年で売り切れ、次の千部も半年で売り切れ、三版目の千部を出版後まもなく破産。在庫400部あまり全部私が引き取りました。現在横浜の有隣堂と著者との直接販売(直版取引)をしております。 3.「原爆正当化のアメリカと『従軍慰安婦』謝罪の日本」 展転社 平成18年出版 アメリカ政府の原爆投下正当化は、史実に基づかない全くのうそ。国益を守り抜くためにアメリカ政府は徹底してうそを押し通してきます。一方「従軍慰安婦」事件は史実ではありません。ところが日本政府は、韓国との外交交渉で一時的妥結をはかるために「従軍慰安婦」事件を公認し、謝罪し、お金まで払うバカバカしさ。日本政府自ら国家の名誉と誇りを平然と傷つけた。所謂、河野談話の責任者の河野洋平は、衆議院議員議長に栄転。日本国民全体が怒りを示さないこの異常さ。日本という国の末期現象の一つです。本代は、2000円です。 4.「逆境に生きた日本人」 展転社 平成20年出版 私は大東亜戦争を徹底的に調べ上げて「大東亜戦争は、アメリカが悪い」を6年間かけて書きました。それだけになぜ自虐史観がいまだに主流なのか全く腑に落ちません。アメリカ占領軍が日本に駐留していた七年あまりはしょうがないとしても、独立を回復してもう半世紀以上経っているのです。それでも自虐史観が主流ということは、日本民族の資質に関係があるのではないかと考え調査しました。その結果、自虐史観とは、日本民族の資質が生んだ歴史観という結論に達したのです。本の帯には西尾先生の推薦文を印刷して売っております。本代は2000円です。 「逆境に生きた日本人」と「原爆正当化のアメリカと『従軍慰安婦』謝罪の日本」は、本屋さんに置いてなくても本屋さんに注文していただければ全国どこの本屋さんでも手にはいります。「大東亜戦争は、アメリカが悪い」は、まだ在庫がありますので、住所を教えていただければ実費1500円郵送代込で送ります。本到着後指定の銀行に1500円をお振込みください。 ブログランキングに参加しています。応援クリック御願いします。
信長の死後(1582年)、秀吉が後を継ぐのですが、欧米人には、この秀吉の名前も覚えてもらいたいものです。なにしろこの秀吉は、当時の超大国、スペインのフィリップ二世に堂々と挑発をしかけているからです。 秀吉は水のみ百姓の子として生まれ、剣術などなにひとつ知らない彼が戦いにあけくれて天下をとったのですから、日本史上最高の出世頭と言えるでしょう。この秀吉はスペインのフィリップ二世と同世代なのです。 欧米人は西洋史にくわしいはずですから、一般の人でもスペインのフィリップ二世の名前は知っていると思います。なにしろフィリップ二世は、スペインが動けば、世界が震えるといわれたスペイン全盛期の王であり、レパントの海戦でオスマントルコを破って地中海を制覇した王であり、その全盛期のスペインの誇る無敵艦隊がイギリス海軍に負けた時の王であり、さらに悪名高いスペインの宗教裁判の主役を演じた人だからです。 フィリップ二世の玉座の前には壮麗な火刑場をしつらえ、廷臣、騎士、枢機卿、美しい宮廷社交界の貴婦人たちの臨席する場で、セヴィリア全市のおびただしい数にのぼる住民の前で、神の栄光の名において、そのつど百人もの異端者たちが一度に焼き殺されるというケースがあったくらいです。 そのフィリップ二世が在世中東洋の日本に豊臣秀吉という男が存在していたことなど一般の欧米人は知らないでしょう。ましてやその秀吉が、日本国内のキリシタンを大弾圧したことも、またフィリップ二世に当時スペインの植民地、フィリピンを、秀吉に武力で征服される前に日本にゆずりわたせと脅しの手紙を書いていたなど知るよしもないのではないでしょうか。 秀吉の行動で今でもなぞと言われているのが彼の晩年の行動、すなわち明(中国)征服の企てです。秀吉の軍隊は、天下統一まで続いた国内の戦争で疲れきっていたことは確かです。それなのになぜ急いで秀吉は明を征服しようとしたのでしょうか。 秀吉は誇大妄想狂になってしまった、彼の個人的征服欲、秀吉本人をカリスマ的人間と思わせるためのカリスマ的演出、彼の部下の領土的要求を満たすためとか色々言われています。その理由はなぞでした。 しかし最近になって当時日本に滞在していた宣教師たちの本国への報告が明かになり、秀吉の明征服行動要因をかなり具体的に推測できるようになったのです。 秀吉が活躍していた時代、東アジアや日本に滞在していたスペインやポルトガルの宣教師たちは、明(中国)をキリスト教国にするためには武力を使うのをためらうなと、彼らは何度も本国に提言していたのです。 彼らはまた明征服はスペインが中南米で征服したアステカ王国やインカ王国と同様に容易だと繰り返しています。 宣教師たちは、明の武力征服にあたって、日本と同盟するのが有利だとして、具体的に協力すべき武将として小西行長の名前をあげているのです。また秀吉への言及もあり、秀吉が日本平定後、中国を征服する際には、ポルトガル船(この時期スペイン王はポルトガル王を兼ねていた)を提供して支援すべきだと書かれているのです。 インドのゴアにいたイェズス会の巡察使、アレッサンドロ・バリニャーノは、1582年12月フィリピン総督(当時フィリピンはスペインの植民地)へ次のような手紙を送っています。 「尤も、日本は何らかの征服事業を企てる対象として不向きである。なぜなら、日本は私がこれまで見てきた中で、最も国土が不毛且つ貧しい故、求めるべき物は何もなく、また国民は非常に勇敢で、しかも絶えず軍事訓練をつんでいるので、征服が可能でないからである。 しかしながら明において陛下が行いたいと思っていることのために、日本は時とともに、非常に益することになるであろう。それ故日本の地を極めて重視する必要がある」 この文で陛下が行いたいと思っているというのは、明征服のことです。 もう一つ例をあげましょう。日本のキリシタン大名が四人の少年使節をローマに派遣しましたが、その少年使節がローマから日本に帰るとき一緒に来日したのが司祭ペドロ・デ・ラ・クルスです。 そのデ・ラ・クルスは「明征服の企ては、ポルトガルとスペインに日本が連合してこそ成就できる」と言う意味のことを何度も言っているのです。 このようにポルトガル、スペインの宣教師たちが本国に明を征服するように説得していること、そのためには日本と組むのが良いということを本国に伝えているいのを、秀吉は宣教師を通して知っていたと思われます。知っていたからこそ1586年に秀吉は日本イェズス会副管区長、ガスパル・コエリュに次のような要求をつきつけたのでしょう。 コエリュの報告によると、秀吉の発言内容は次のとおりです。 「下賎より身を起こして最高の地位に到達したのであるゆえ、その権威あるいは名を後世に残す以外には、もはや諸国をとろうとも、あくほど持っている金銀をさらにふやそうとも思うてはいない。 日本の国内を無事安穏に治めたいと考えている。そして国内を鎮定したうえは、これを弟の秀長にゆずって、私自身は朝鮮と明との征服にもっぱら心をもちいるつもりであり、従ってその用意に大軍を渡海せしめる二千艘の軍船を造るための木材を伐採させている。 宣教師らにたいしては、そのために、じゅうぶん艤装した欧船二艘を依頼いたしたく、船の代価はもちろん、必要品のすべてに対して望みどおり支払いをなすはずである。ついてはまた、練達なる航海士の供給もうけたく、これに禄をあたえ、報酬金を交付するつもりである」 ところが翌年、1587年、当時九州征伐で博多に滞在していた秀吉はコエリュに会ったのですが、彼の要求がなんら具体化されていないことを知ったのです。これには秀吉は激怒したと思われます。なぜならその年のうちに宣教師たちにとっては、全くの寝耳に水のキリシタン禁止令が発令され、宣教師たちは国外退去を命じられたからです。 ところで何故コエリュは、秀吉の要求に応えなかったのでしょうか。秀吉の要求に応えてしまうと、明征服が日本主導のもとで行われてしまうからでしょう。スペインは日本の協力を仰いでもスペイン主導のもとで征服したかったのでしょう、あるいはスペイン単独の明征服計画が煮詰まっていたのかもしれません。 一方秀吉は、スペイン単独で明を征服されてしまうと、日本はスペインの脅威にさらされてしまうと考えたのでしょう。その考えは当然すぎるほど当然です。当時は情報の少ない時代です。海外情報を一番よく知っている人間は、秀吉だけです。そこで秀吉は日本単独で明征服をする決心をし、ついでに宣教師の力を借りようとしたのでしょう。 ところが宣教師の力を借りれないと知った秀吉は激怒したのです。もともと気にいらなかったキリシタンを弾圧、宣教師を国外追放、彼は文字通り単独で明を征服しようとしたのです。 秀吉はその年のうちに明征服の通り道になる朝鮮との外交を開始し、朝鮮国王の来日を要求する強圧外交にでました。翌年の1588年には、秀吉は琉球に入貢を促し日本に服属することを要求しています。 さらに1591年には秀吉は次のような書状をフィリピン総督に送っています。 「わが国は百余年にわたって群雄が争っていたが、予が生まれたときから、これをことごとく統一すべき使命を与えられ、ついに十年余りでこれを成就した。いま、さらに明にたいして征討の軍を送らんとしているから、即刻降伏せよ、さもなければ征服してしまう」 朝鮮との外交交渉がなかなか合意に達せず、いわゆる「仮途入明」(かとにゅうみん)といって明に入るために朝鮮の道を借りたいとの要求も朝鮮側の拒否にあい、ついに1592年3月朝鮮との戦争が始まりました。秀吉の軍勢は合計15万8千7百人の大軍です。緒戦の大勝利に気をよくした秀吉は、秀吉の甥でのちに養子になる秀次に次のような書状を送っています。 「大唐の都北京(ぺきん)に後陽成天皇(ごようぜい)を移す。明後年には天皇の居をお移しし、都の周辺の国々十か国を進上する。そして秀次を大唐国の関白として据え、都周辺の百カ国を渡す。日本国内の天皇には、皇太子良仁(よしひと)親王か弟帝の智仁(ともひと)親王かのいずれかどちらでもよい。日本の関白には、豊臣秀保か宇喜多秀家をおき、九州は羽柴秀俊。そして秀吉自ら北京に入り、その後寧波(にんぽう)に居をさだめる。そこから諸侯各位、予が命令せずともインドを好き勝手に切り取らせるようにする」 翌年の1593年には、台湾に入貢をうながし服属を要求しています。 1594年には秀吉はさらなる脅しの手紙をフィリピン総督に送り届けています。その手紙の内容は、 「予が誕生の時、太陽が予の胸に(光)を与えたが、これは奇跡であり、これによって予が東西にわたって君主となるべき人物であり、諸国ことごとく予に服し、予の門に来たって屈服すべきであることが判る。 これを為さぬ者は戦いによってことごとく殺戮するであろう。 予は既に日本全国及び朝鮮国を手に入れ、数多の武将がマニラを攻略に行く許可を求めている。これを知って原田(喜右衛門)と(長谷川) 法眼は予に『彼我の地の間には緒船の往来があり、それによって(マニラ)が敵であると思えない』と言った。 この道理によって予は(マニラ)へ軍勢を派遣することを思い留まったのである。朝鮮の人々に対してその言葉を守らなかったので戦を始め、 その首都まで獲得し、その後予の部下は彼らの救援に明(中国)からきた無数の明人や数多の貴人を殺害した。(中略)彼らはかの地において(明からの)使節を待っている。もし彼ら(明人)がその言葉を守らねば、彼らと戦うために予自ら出陣するであろう。こうして明に至ればフィリピンがすぐ近く予の指下にある。 予は我ら(日本とフィリピン)が永久に交友を保つことを希望する。これをカスティリア王に書きおくられよ。遠隔の地を理由にカスティリア国王が予の言葉を軽んずることがないようにせよ」 カスティリア王とは、スペイン王フィリップ二世のことです。この時期 秀吉は、日本、朝鮮、中国、琉球、台湾、フィリピン、インドを含む大帝国の支配者になろうと考えていたのではないでしょうか。 それでは実際の戦場である朝鮮の戦いはどうなったかと言えば、確かに緒戦は大勝利でしたが、その後は朝鮮民族の激しい抵抗、朝鮮水軍の活躍、明軍の支援、朝鮮国内の大飢饉などで、秀吉軍の進撃がおもうようにはかどらなくなってしまったのです。 和平交渉が始まるとほとんど休戦状態になってしまいました。長い和平交渉は決裂し、1597年に秀吉は朝鮮の再征を決めた。その再征も失敗、1598年に秀吉の死を秘して朝鮮から撤兵した。 秀吉は国内平定前に明征服をコエリュにうちあけているのですが、国内をほぼ平定後すぐに朝鮮出兵を命じているのです。なぜそれほど急ぐ必要があったのかなぞなのですが、考えられる理由は二つあります。 一つは、秀吉が明征服のため二艘の船と熟練の船員の手配をコエリュに要求したのに、事実上拒否された形になっています。その時秀吉は、ひょっとしてスペインが単独で明を征服するつもりではないのかと考えたのではないでしょうか。それなら先に日本が征服してしまわなければという理屈になります。 二つ目は、再征出兵後の翌年秀吉は、あっけなく死んでいるので、秀吉は自分の体力の急激な衰え、あるいは病気で、自分はもう長く生きられないと悟ったのではないでしょうか。こういう時はえてして人は、結論を急ぎたがるものです。あるいはこの二つの理由が一緒になっていたかもしれません。 もし息子の秀頼が、もっと早く生まれていて、一人前の武将になっておれば、後は秀頼に後事を託す心の余裕も生まれていたことでしょう。 日本国内の秀吉の脅しの手紙は、効き目があったと思います。それが外国にも通じると思って脅しの手紙を連発する秀吉のおそまつな外交は、現代の日本人は笑うことはできません。 秀吉の明征服に関して私は、近所の図書館でわざわざ四種類の歴史書を読みました。それはある予想をしていたからです。大東亜戦争日本悪玉論が主流をなす現在、なにかといえば戦前の日本を批判する時勢です。 明を征服しようとして朝鮮征伐までした秀吉は、恐らく徹底して批判されているのではないかと想像したからです。 想像どおり四種類の本とも秀吉をはげしく批判していました。明征服については、誇大妄想だの、ひょっとして秀吉は気が狂ったのではないかと書いてあるのもありました。私はあらためて時勢、時流に盲従する歴史学者を見た思いでした。 秀吉批判もけっこうですけど、世界情勢の中での秀吉をなぜ見ようとしないのでしょうか。秀吉の時代は、スペインが動けば、世界が震えると言われたスペイン帝国が存在していました。 南ヨーロッパを支配し、イスラム勢力を駆逐し、中南米大陸を征服し、フィリピンのマニラを根拠地としてアジア全体の支配を狙っていたスペインに対して異を唱えることができたのはヨーロッパを除いて秀吉のいた日本だけです。宣教師たちも日本を征服できない国とか、明を征服する時は日本の協力が必要とか言って日本という国の存在感を認めているのです。 秀吉はスペインに自分の意思をはっきり見せ付けたのがキリシタン禁止令であり、六人の外国人宣教師を含む26人のキリシタンの処刑です。 これに対してスペインは報復できなかったのです。国内平定後秀吉は、スペインの向こうを張って東アジアに大帝国を築こうとして明征服を実行にうつしたのです。 秀吉のフィリピンを日本によこせという脅しの手紙の効果のほどはわかりませんが、少なくとも日本にいる宣教師たちは秀吉の動性を不安げに見ていたことは確かです。 処刑のため長崎に護送される途中、フランシスコ会の宣教師マルチン・デ・ラ・アッセンシオンは1597年一月にマニラ総督にあてて 「この国王はサン・フェリペ号から没収した貨物によっていっそうの欲望をつのらせた。うわさによれば、彼は元来は朝鮮との事件に忙殺されていて、いまは企てないが、来年はマニラにおもむくとのことである。 この目的を達するため、彼は琉球列島および台湾島の占領を計画し、同島をへて軍隊をカガヤンに送り、さらにマニラに殺到する由である」と報じています。 処刑される寸前までマニラのことを心配して情報を送っているのです。秀吉の軍隊を強敵とみている証拠でしょう。結局秀吉の計画は失敗に終わりました。失敗したからといって秀吉を批判するにはおよびません。 現職の天皇の住居を中国の北京に移し、自分は上海のすぐ南にある寧波 (にんぽう、当時日中貿易の拠点)に居をかまえようと計画した時、秀吉の頭には、ジンギス・ハーンやフビライ・ハーンの大帝国や、当時の大帝国スペインが描かれていたはずです。 隣国の領土だろうが、遠い国の領土だろうが、切り取り自由の時代に日本の外に飛び出して世界的な大帝国を築こうと計画し、実行に移したのは、日本史上秀吉しかおりません。貧農の出と言われる秀吉が、一生の間に日本国内平定だけでなく、世界的大帝国を築こうとしたのです。 まさしく秀吉は我々日本人が誇るべき英雄の一人なのです。 ナポレオンに対してどんなに近隣諸国から文句が出ようがナポレオンは、フランス人の誇る英雄です。近隣諸国を蹂躙して大帝国を築いたジンギス・ハーンはモンゴル人の誇る英雄です。 ところがどうですか、日本の歴史学者は、秀吉の時代まで現在の価値観で秀吉を裁き、批判しているしまつです。皆さんはどちらの歴史観を支持するのでしょうか。 このブログをひょっとして韓国人が読んでいるかもしれません。私は、韓国人にはっきり主張しておきます。韓国人が秀吉のことを何と言おうと、秀吉は日本の英雄です。 秀吉が元気でもっと長生きして朝鮮や明を征服してくれたら良かったのにと思っています。 ブログランキングに参加しています。応援クリック御願いします。
私の住む横浜市に市立の理数科を専門に教える高等学校が新設され今年4月に開校した。新しく建設されたすばらしい校舎に、最新鋭の実験設備を豊富に揃え、先生方もノーベル賞受賞者も含め現在日本で活躍されている一流の学者、技術者が直接生徒たちを教えます。生徒たちを「先端科学技術の知識を活用して世界で幅広く活躍する人間」の育成を目指すとしています。簡単に言えば、理数科を得意としている子どもたちを、高校生のうちから理数専門教育を受けさせ、その才能を伸ばそうとするのが目的です。私はこのようにエリートを養成する学校創設には諸手をあげて賛成します。 しかし以下に述べる三点については、この学校だけの問題ではなく広く社会一般に通じる問題点でもあります。 1.横浜サイエンス フロンティア高等学校、恐らく教育委員会が学校の名前をつけたのでしょうが、この学校の名前のつけかたは一体なんですか、全く気に入りません。私にいわせれば実にけったいな学校名です。完全に現在大はやりの、立派な日本語がありながら、わざわざ英語に言い換えて使用する傾向を典型的に示しています。なぜ横浜理数専門高等学校、あるいは横浜理数専門学校ではいけないのでしょうか。第一サイエンス フロンティアで理数課を専門に教えるという意味にとれるでしょうか。 現在の日本国民のほとんどが、意識的にせよ、無意識にせよ日本語は、ださいなもの、英語やヨーロッパ系語の方がかっこいいものと思っているのです。どんな言葉が今日常的に使われるようになっているか例をあげましょう。リベンジ、コラボレイション、パーフォーマンス、レシピ、コンプライアンス、アンチエイジング、ターミナルケア、コンシェルジェ、等等。これら全部立派な日本語があります。まだ探せばいくらでも出てくるでしょう。その他テレビの定時のニュースの時間では、七時のニュースとか九時のニュースとか言っていたのに今では、ニュースセブン、ニュースナインと言っています。 私は日本国民に聞きたい。あなた方は、自国の言葉である日本語を誇りに思うどころか、自国の日本語を呪っているのではないですか。私には呪っているとしか思えません。北海道のサッカーチームに「コンサドーレ」というチームがあります。このチーム名の由来は、最初は北海道のチームだから「道産子」を考えました。しかし日本語じゃまずいからさかさまにして「コンサド」それに「オーレ」をつけてスペイン語風を出したというのです。チーム名が「道産子」ないし「ドサンコ」でいいじゃないですか。ここには日本語へのこだわりもなければ、日本語をださいな言葉と考えていることがよくわかります。そのうえ日本人の悪いくせ。皆が外国語みたいなチーム名だから。他のチームが皆横文字だから、それだったら余計日本語を使ってみようという気にならないのですかと言いたい。 それでも「コンサドーレ」は、いままでになかった新しく生まれたものに対する命名だからわずかながらも情状酌量の余地があるような気がします。ところが「職業安定所」略して「職安」という立派な言葉がありながら、いまでは完全に「ハローワーク」という言葉が使われ、「職安」という言葉が全く聞かれなくなってしまった。恐らく役所がかってに「職業安定所」から「ハローワーク」に変えたのでしょう。それを国民は素直にしたがって「ハローワーク」を使い始めたのでしょう。日本国民の皆さん、あなたがたはバカか。一体「ハローワーク」がなにを意味するのですか。日本語へのこだわりはないのですか。だから私が最初に触れたように日本人は、日本語を呪っているというのです。そのうちにアメリカに滞在している日本人が、アメリカで職探ししようとして、「ハローワーク」はどこでしょうかとアメリカ人に聞くことになるでしょう。 明治時代には、当時日本にはなかった言葉が欧米諸国からどんどん入ってきました。明治政府の人たちは、それらに全部漢字をはてはめて日本語をつくりました。電信、電話、電報、経済、資本主義、共産主義、民主主義、革命、人権、化学などなど沢山の漢字を作りました。それらの漢字全部が、中国に逆輸出され現在でも中国で使用されています。ところが現在の日本は、どうですか。我々の先人たちが、せっかく「職業安定所」という立派な日本語をつくりながら、バカ丸出しの「ハローワーク」。この言葉に一体なんの意味がこめられているというのですか。便所がトイレになるよりたちが悪い。 横浜サイセンス フロンティア高等学校を命名した横浜市の教育委員会の皆さん、そんなに英語が使いたかったら、これから自分の女房を「ハイ、ハニー」と呼んだらどうですか。 2.教育問題に熱心に取り組んでおられる参議院議員、義家弘介氏は、この学校の開校式に出席し、その模様を次ぎのように語っています。 「競争率五倍以上の難関をくぐり抜けてきた優秀な生徒たちですから態度もよく、びしっと座っていたのですが、国家斉唱の際「君が代は・・・」に続く歌詞がわからないのです。もともと声がほとんど出ていなかったうえに、「千代に八千代に」のところでほとんど聞こえなくなってしまい、本当に悲しかったですね。世界的に活躍できる人材を生み出そうという目的で作った学校なのですが、これでは国歌も知らない日本人を育ててしまうことになりかねません。」 全く情けない話ではありませんか。 実は、私が所属する「日本世論の会、神奈川支部」では、毎年卒業時における国歌・国旗の実施状況調査をし、その結果を県教委、県議会、知事などに提出しています。今年も会員と協力者で小学校(46校)、中学校(38校)、高校(22校)の卒業式の国歌、国旗の実施状況を調査しました。年々改善されてきたのは確かです。しかし高校の卒業式になると実施状況が悪くなるので昨年あたりから高校に重点を置き始めました。 私は昨年、県立元石川高校の卒業式に出席した。壇上にピアノが置いてあるからピアノ伴奏で国歌を歌うのかと思ったら、国歌斉唱の時、一応全員起立した。それから君が代の歌入りのテープが流れ、生徒がそれに合わせて歌う式典でした。生徒たちは黙って聞いているか、テープにあわせて小さな声で口ごもっていました。直立不動の姿勢で大声をはりあげて歌う私の声が一際ひびきわたった。今年は、県立荏田高校の卒業式に出席した。この高校はピアノ伴奏で君が代を歌うことになっていました。しかし生徒たちは、義家参議院議員が言うように「君が代」の文句を知らないのです。この学校の卒業生320名、全員が歌えないのです。私や一部の人が大声あげて歌うものですから、我々の歌声の大きさが大変目立ちました。 神奈川県に関するかぎり公立学校の生徒は、高校卒業時でも国歌を歌える生徒はほとんどないのです。だから高校入学時、ほとんどの生徒が国歌を歌えないのも当然でしょう。国歌も歌えない、国に誇りを持たない、日本語にさえ誇りを持たない、そのうえ自虐史観を教え込まれている生徒にいくらエリート教育をほどこしたところで国家にはなんの役にも立ちません。 この新高校の校長、佐藤晴夫氏は、昭和44年の数学教師から神奈川県立の柏陽高校の校長になった経歴の持ち主です。要するに現場の教師をしていた時は、日章旗を掲げない、君が代は歌わないことにしていた時代なのです。その佐藤校長が、新高校の入学式の時には、日章旗を掲げ、君が代を歌わせたことは少し前進したことはたしかでしょう。しかし一昨年私は、横浜市立美し丘中学の卒業式を見学した時は、君が代の歌のテープが流れただけでした。少しずつ改善しているとはいえ、こと神奈川県の高校に関する限り、全校生徒全員が直立不動の姿勢のもとに大きな声で君が代斉唱できるまでにまだ時間がかかることはたしかです。 3.全館冷暖房付きのすばらしい校舎、最新の実験設備、現在各専門分野で活躍中の一流 の先生たち、このように恵まれた環境で勉強できるのですが、心配するのは生徒たちの精神面の教育はどうするのだろうかということです。私の年代の人たちは、若いとき国が貧乏だった、そのうえ私のように家が極貧状態だった家庭も多かった。そのために学校で特別に鍛えられなくても精神的に非常に鍛えられた。 しかし現在の若者は、恵まれて育ってきた。それだけに精神面に弱い面があります。若者の自殺や、秋葉原の通り魔事件などにみる刹那的暴力など精神面の弱さが目立ちます。めぐまれた環境の中でどうやって精神免を鍛えるか非常に重要な問題ではないでしょうか。ところがそんな討論がなされたことがないのではないでしょうか。 この選ばれたエリートの卵たちは、恵まれた環境だけで育てられるだけで、精神面を鍛えられることもなく卒業するなら、それまでに費やした時間とお金が浪費になる可能性が高い。プロのスポーツ選手になるとか、オリンピックに出る選手ならそれなりに精神的に鍛えられますが、一般学生は精神的に鍛えられることがない。どう精神的に鍛えるかが大変重要な問題なにの、教育者の間ですら考えようともしないのです。 大体現在の教育者自身がなんの苦労もなく勉強し、教師になる。教師になったら首になることがないから,実社会では精神的にタフであることの重要性など理解できないのです。国際社会で活躍できる人材の育成を目指していますが、その国際社会そのものが国内より激しい競争にさらされるのです。もし精神的に弱ければ、今まで学んできた力も発揮できずに終わってしまうのです。強い愛国心、強い精神、優秀な学業成績、この三つがそろっていてこそ、国際社会で、各国のエリートと対等に渡り合えるのです。学業成績優秀だけでは使い物になりません。 現在、高校卒まで義務教育になっているような状況です。この間、どうやって子どもたちの精神面を鍛えるかということが非常に重要な問題であることを一日も早く理解してもらいたいものです。 ブログランキングに参加しています。応援クリック御願いします。
日本にキリスト教を布教するために、最初にやってきた宣教師は、カトリック教会のイェズス会に属する、スペイン人の宣教師フランシスコ・デ・ザビエルと彼の二人の修道士、コスモデ・トルレスとジョアン・ フェルナンデスの三人でした。 彼らは1549年の夏、鹿児島に入港した。当時日本では、キリスト教の教えや信者のことを、ポルトガル語のクリスタンからなまってキリシタンと呼ばれていました。 このイェズス会というのは、分かりやすく言えば、プロテスタントの始祖と言われるマルティン・ルッターの宗教改革がカトリック教会外部からの宗教改革なら、イェズス会はカトリック教会内部からの宗教改革と言えるでしょう。 イェズス会は1543年に設立され、創立者はイグナス・ロヨラで、ザビエルは七人の同士の一人でした。ポルトガル国王ジョアン三世によるインド布教の要請に応えて、ザビエルはインドに渡り1542年インドのゴアに到着し布教活動に入った。 布教活動中の1547年にマレー半島のマラッカで、ザビエルは池端弥次郎という一人の日本人に出会った。彼はこの池端弥次郎という 男に好印象を持ったのでしょう、弥次郎をインドのゴアに送り宗教教育を受けさせ、彼に洗礼を受けさせたのです。弥次郎は、日本人最初のキリスト教信者になった。 ザビエルは彼をともなって日本にやってきました。こうしてザビエルは、日本にキリスト教をもたらした最初の外国人宣教師として日本の歴史に記憶されることになったのです。 日本滞在三ヶ月目にザビエルは、最初の報告書をインドのゴアにいるイェズス会の人たちに出しています。その中に日本人についてこう書いています。 「この国民は自分たちがこれまでに接触してきた諸国民の中で最高に傑出した人々である。まだキリスト教化されていない国民で日本人ほど優秀な者はない。彼らは総体的に親しみやすく、善良で悪意がない。 驚くほど名誉心が強く、他の何ものに代えてもまず名誉を重んじる。 日本人は大概貧乏である。だが武士たると平民を問わず、貧乏を恥じだと思っている者は一人もいない」 「他のなにものに代えてもまず名誉を重んじる」などと言われると、現代の日本人に比べると、まるで違う人種のような気がするのは私一人だけではないでしょう。 ザビエルは布教活動しながら京都まで行きましたが、布教活動は順調にゆかず、日本滞在わずか二年三ヶ月にしてインドに帰り、後事を残ったトルレスやフェルナンデスに託したのでした。 残された人たちや新しく日本にやって来た宣教師たちの努力で布教活動も軌道に乗り、少しずつキリスト教信者が増えていきました。 それにはずみをつけたのが、大村純忠(すみただ)が日本最初のキリシタン大名になったことです。彼は熱心なキリスト教保護者になったばかりでなく、 彼の領地にある長崎の土地をイェズス会に寄進した。それまでポルトガル商船は平戸に出入りしていたのですが、こんどは長崎が貿易船の出入りの中心になり、またイェズス会の布教の中心にもなりました。 宣教師の数も1577年になると21人にもなり、修道士は30人になっていました。 キリシタンの数は1571年のイェズス会の報告によると、「日本におけるキリシタンの総数は約三万人、日本全体においてはキリシタンの数はおおいに増加している」と伝えています。 それが1579年の報告によると諸国に居住しているキリシタンは十万人内外であろうといわれるほどの数になっていたのです。この年イェズス会の巡察使アレッサンドロ・バリニャーノが日本の布教状況の視察にやってきた。 1581年にはバリニャーノは、京都に上って織田信長に会い歓待されてもいます。彼は三回巡察使として日本にやってきましたが、日本語が話せず、通訳はもっぱら1570年から布教にきているオルガンティーノ・ソルドに頼ったものと思われますが、そのオルガンティーノは度を越した日本礼賛をしています。ちょっと彼の言葉を聞いてみましょう。 「日本人は全世界でも最も賢明な国民に属しており、彼らは喜んで理性に従うので我ら一同よりはるかに優っている。我らの主が人類になにを伝え給うたかを見たいと思う者は、日本へ来さえすればよい。 彼らは不必要な事を外面の表情に表すことなく、はなはだ忍耐強く、 心の広い国民で、改悛は真摯にして信心深く、儀礼に大いに気を遣い、 交際において鄭重である」、さらにこうも言っているのです。 「ミヤコ(京都)こそはヨーロッパでいうならローマに当たる。この地の科学、見識、文明はローマよりもさらに高尚である。信仰のことはともかくとして、我らは日本人より顕著に劣っている。私は日本語がわかるようになってから、世界にかくも聡明で明敏な人々はいないと考えるに至った」 これはまたものすごい誉めようではありませんか。オルガンティーノが日本にすっかりほれこんでいるのがよくわかります。彼は38歳の時に日本に来たのですが、77歳で長崎で亡くなるまで39年間日本の地を離れなかったのも、わかるような気がします。彼にとって日本は天国のような国だったのでしょう。 1581年のイェズス会の報告には、 「本年日本にいるキリシタンの数は15万人内外、そのなかには豊後、有馬及び土佐のキリシタン王のほかにも、高貴な人で親戚および家来とともにキリシタンとなったものが多数いる。キリシタンの大部分は、下(しも)の地方有馬、大村、平戸、天草などにいて五島および壱岐の地にもキリシタンがあって、その数11万5千人にのぼる。豊後国には一万人、ミヤコの地方にも二万五千人いる。ただし五機内と称する国々および山口その他の地方に散在するものも、このなかに加算してある。 キリシタンのいる国々に大小あわせて二百の聖堂がある」 なぜキリスト教がこのように発展していったのか、いろいろな要員があげられるでしょうが、要約すれば三つの要因があげられるでしょう。 一つは信長が、キリスト教の布教を容認したこと。 二つ目は、ポルトガル船による貿易の利益を得ることができたこと。 多くの大名が布教を容認してポルトガル商船の入港を歓迎したのです。 三番目は、キリスト教の布教には必ずと言っていいほど医療救済が伴い、庶民が積極的に医療救済を求めたのです。 無論無料で行われたのでしょう。いくら無料でも医療技術が日本より水準が低ければ繁盛しないでしょう。宣教師たちの医療水準は高かったのではないかと思います。そして各地に大小の病院が建設されました。 1582年には、キリシタン大名の大友、大村、有馬の三氏は、十四、五歳の少年四人をローマ法王への使者としてローマに派遣するほどになったのです。 渡欧途中少年たちは、秀吉がキリシタン禁止令を出した一つの理由である多数の若い日本人男女が奴隷として売られ、みじめな仕事をさせられているのを見た。巡察使のバリヤーノがインドのゴアまで少年たちのお供をしたのですが、彼はヨーロッパ人種以外の人種について少年たちに次のように語っています。 「黒人は自然が作った畜生のようなもので、奴隷となるために生まれてきた」、「中南米には色のどす黒いきわめて下等な人種が多数いる」、 「インド人は身体の色が黒味を帯びているように精神も愚鈍」、 「畜類のような生活をしている全アジアの無限ともいうべき多くの種族、そしてこれら憐れむべき種族は、少数のヨーロッパ人の権力を仰ぎ、彼らを当然の支配者と考えている」 このようにヨーロッパ人の有色人種に対する差別の歴史は古いのです。少年たちがローマに向けて出発した同じ年に信長が亡くなりました。 その後を継いだのが秀吉です。信長急死後の後始末で秀吉は忙しかったせいもあるのでしょう、秀吉も信長と同じようにキリシタンの布教を容認していました。 ところが突然、1587年秀吉は、キリシタンの布教禁止、宣教師の国外追放を発表しました。発表の内容は次のようなものでした。 1.日本は神国であるからキリシタン国から邪教を伝えたのは、はなはだけしからぬ。 2.宣教師たちが諸国の人民をキリシタン化し、神社、仏閣を破壊するのは、みのがすわけにいかぬ。 3.それゆえに宣教師を日本に滞在させるわけにはゆかぬ。 今日から二十日の間に帰国せよ。 この期 間に宣教師に危害を加える者がいれば処罰する。 4.日本人奴隷の売買禁止。 5.大名や侍が領内の農民をキリシタンにすることを禁止。 7.牛馬を屠殺して食用に供することを禁ず。 8.商売のためにやってくる外国船は、今後とも長く続けてよい。 この秀吉の禁令に接し、当然その対策を考えたと思われる宣教師のルイス・フロイスは、 「秀吉殿はミヤコの大名たちと語るさい、宣教師を追放したのは、神仏に反対の説教をしたためであるとし、また多数の大名たちをその宗旨に引き入れ、日本において反乱をおこすおそれあることは、これまで何人も気づかなかったが、彼だけがこれを洞察したといって誇っている」と伝えています。 秀吉は大名たちをキリシタンに引き入れたあげく、反乱をおこさせ、国をうばおうとする魂胆があるのではないかと疑いの目でキリシタン布教を見ていたのでしょう。この秀吉の疑いの目を確信させる事件が起きたのです。1596年七百トンもあるスペイン船、サン・フェリペ号が、メキシコに向かう途中暴風雨にあい高知県の浦戸沖に漂着した。秀吉はすぐに部下を現地に派遣して取調べさせました。その時サン・フェリペ号の水先案内人、フランシスコ・デ・サンダがおもわぬ失言をしてしまったのです。 イェズス会の宣教師ルイス・デ・セルケラが伝えたところによると、 この水先案内人は、秀吉の部下に世界地図を見せて、スペインの領土の広大なことを自慢した。そしてどうしてそんなに領土を拡大したかと尋ねられると、わが国ではまず宣教師を派遣してその国の人にキリスト教を伝えておき、信者が相応の数になったとき軍隊をさしむけ、信者の内応をえて、たやすく目指す国土を征服すると答えたというのです。 これが秀吉に伝えられたのです。1587年に秀吉は、キリシタン禁止令や宣教師の国外追放を発令していました。しかしこの発令が厳しく施行されなかったので、イェズス会の宣教師は地下にもぐって伝道していました。 イェズス会ばかりでなく、スペイン政府を後ろ盾にしたフランシシスコ 会の宣教師がフィリピンからやってきて伝道するようになっていました。そこで秀吉は、サン・フェリペ号漂着の同じ年の暮れにフランシスコ会の6人の宣教師と日本人信者20人を長崎ではりつけの刑の処し、 やりでつき殺したのです。 これが日本最初の大殉教で、この26人の殉教者は、1862年、ときのローマ教皇によって聖人の位を受け、殉教の日は全世界カトリック教徒の祝祭日に定められました。 この大殉教の日からおよそ一年半後の1598年に秀吉は亡くなり、このキリシタンの問題は、徳川家康の江戸幕府に引き継がれます。 この大殉教は、ローマのカトリック教会本部や海外のカトリック教会に衝撃を与えましたが、逆に宣教師たちに禁教下にある日本に殉教覚悟の伝道に熱意をもえたぎらせる結果になったのです。 秀吉のあとを引き継いだ家康は、貿易のため多少のキリシタン布教はしょうがないという態度をとったのでキリシタンの数がさらに増えたのです。1605年には、全国で6、70万といわれるほどになったのです。 1612年のイェズス会の報告によると宣教師、修道士あわせて250人も全国に配置されているほどです。キリシタンが確実に日本社会に深く浸透していったことが分かります。 これに脅威を感じた家康には、オランダのオレンジ公マウリチウスが1610年家康あてに書いた手紙の中で、ポルトガル、スペインは宗教上の神聖をよそおって、実は日本国民をキリシタンにしたて、貴国を徐々に分裂させ、派閥を生ませ、内乱に導こうとしているというような情報も手に入っていました。 日本との貿易で遅れをとったオランダやイギリスは、布教とは無関係に貿易しようとあらゆる機会を通じてポルトガル、スペインの追い落としをはかり、キリシタンの影にひそむ両国の領土的野心を家康に忠告したのです。 家康はまた大阪城にいる秀吉の息子、秀頼とキリシタンの結びつきをも警戒しなければならず、1613年家康は、キリシタン禁止令を発布してキリシタン弾圧を始めました。 家康死後、秀忠の代になると弾圧は厳しさを増し、1622年には、外国人宣教師をはじめ、日本人信者、その家族ら老若男女あわせて55人のキリシタンを長崎で処刑、翌年には江戸でキリシタン50人を火あぶりの刑にしょしたというようにこれまでにない徹底した弾圧を加えたのです。 そして日本のキリシタン布教の息の根をとめたのが1637年の島原の乱です。もともとこの島原の乱は、領主の重税に対する農民の抗議でしたが、領地の天草、島原はもともとキリシタンの多いい地域で、農民にもキリシタンが沢山いたのです。 このため幕府は島原の乱をキリシタンの暴動とみなし、乱平定後もキリシタン弾圧は全国的に続けられ1636年には長崎のポルトガル人278人をマカオに追放、1639年にはポルトガル船の来航を禁止しました。 このためキリシタン布教は完全に下火になり、二度と弾圧前の隆盛に戻ることはなかったのです。江戸幕府は、弾圧に成功したのです。ヨーロッパでは、この時期の日本のキリシタン弾圧はよく知られています。 ヨーロッパ内では、新聞で日本特集を編集する時か、なにかの講演で日本が語られる時など色々な機会を利用して宣教師の迫害が語られ、日本人の残虐性の表れと非難するケースが多いいのです。 私はヨーロッパ人のこのような行為には別に驚きもしませんが、私が驚くのは、かなりの日本人がこのキリシタン弾圧を批判していることです。歴史書においてもたとえ弾圧を批判しなくとも、ことさら弾圧を強調したりするのです。ましてや私のようにキリシタン弾圧を正当化する歴史教科書は皆無と言っていいでしょう。 ではなぜ日本はキリシタン弾圧に成功したのでしょうか。それは信長、秀吉、家康の時代は、日本は軍事大国だったからです。当時の超大国と言えばスペインです。秀吉などは、そのスペインのフィリップ王に脅しの手紙を書いているくらいです。 江戸幕府が、外国人宣教師の入国をいくら厳しく禁止しても、死を覚悟の宣教師が、現在用語で言えば、密入国し、不法滞在して布教していたのです。密入国の宣教師たちを送り出す前線基地が、スペインの植民地であるフィりピンのマニラでした。このため江戸幕府はマニラへの遠征計画をたてたほどです。ところが島原の乱が起きてそれどこではなくなってしまったのです。 日本がキリスト教国にならずにすみ、またヨーロッパの植民地にならずにすむためには、弾圧のタイミングがちょうど良かったといえるのです。1560年、ポルトガル人によってインドのゴアに設けられた「死の収容所」には、ヒンズー教、イスラム教、仏教徒など「邪教」を信じる者が収容され、教会による拷問は苛酷を極めたと言われています。 16世紀から17世紀のはじめにかけて、宗教裁判によって殺されたゴアの住民は3800人にも上っていたのです。日本に来た宣教師は、こういう残酷なことをしなかったことは確かです。 それはザビエルをはじめ日本にきた宣教師たちが良い人だったからと考える人がいたら、それはあまりにも人が良すぎます。日本の政治体制がしっかりしていて、外国人宣教師たちが好き勝手なことができなかったからです。 キリシタン弾圧のタイミングを逸して、もし幕末にでも弾圧をしたらどうなったでしょうか。それこそキリシタンの信者はさらに増えていて、 弾圧するとすればヨーロッパ諸国が介入してくるでしょう。 その時日本は、ヨーロッパ諸国との軍事力の格差が広がりすぎていて、たちうちできなかったはずです。 だからキリシタンを弾圧するなら、日本がヨーロッパ諸国と互角にあるいは互角以上に戦える16世紀と17世紀の半ばぐらいの時期しかなかったのです。 中南米に住む人たちは、キリスト教を弾圧できないどころか、民族自身が弾圧されてしまったのです。そして現在の中南米では、自分たちの祖先弾圧に手を貸したカトリック教をまるで国教のように信仰しているのです。私から見れば実に哀れというほかはありません。 日露戦争の勝利が日本が植民地にならずにすんだと誰もが承知しています。しかし同時に16,7世紀にキリシタン弾圧に成功したことも、日本が植民地にならずすんだ原因の一つにあげてもおかしくありません。 それがどうして日本の歴史教科書に書かれることがないのか不思議でなりません。 日本でキリシタンの布教が活発に行われていたころ、見逃してはならないことは、神社、仏閣の破壊です。ローマ帝国でもキリスト教が国教になるとそれ以前の数百年にわたる多神教時代の多神教に関する建造物は、ことごとく破壊されています。 日本でもキリシタンによる神社、仏閣の破壊がありました。だから秀吉はキリシタン禁止令の理由の一つに「神社、仏閣の破壊は見逃すわけにはいかぬ」とあげているのです。不思議なことに日本の歴史書、特に歴史教科書にいたっては、日本のキリシタン弾圧は強調しますが、神社、仏閣の破壊行為についてはあまり振れようとはしません。 日本に初めてキリスト教が伝えられた当時の宣教師、ルイス・フロイスは、長年日本に滞在して「日本史」を書いたほどの日本通ですが、彼はその中で仏像を焼却するか首に縄をかけて町中に引き回し、教会で炊事の薪にしたと書いています。 いったん破壊されて数十年も経つと、記録にでも残されていないかぎり、そこになにが建っていたか忘れられてしまいます。例えば、 私は現地に行って実際には見ていませんが、雲仙の温泉地獄で幕府により改宗を迫られ、断固拒否して殺された30数名の神父とキリシタンについては石に刻んで記録に残し、大きな十字架を建てて観光客に訴えています。 そこから数百メートルの地点に温泉神社と真言宗の満明寺が存在しますが、双方とも当時神父やキリシタンにより破壊されてしまったことは現在どこにも記されていません。皮肉にも、唯一の史料はルイス・フロイス著「日本史」です。 第二部五十三章に「温泉神社や僧院、神仏像はキリシタン大名有馬晴信の改宗後、ことごとく破壊された」とあります。この例など記録に破壊されたことが記されているから、破壊後再建されたことがわかるのです。だから破壊されたまま、再建されることもなく消えてしまった神社、仏閣などがどれほどあったか想像つきません。 いずれにしてもキリシタン弾圧に成功したから、日本はキリスト教国になってヨーロッパの植民地になることを免れ、現在では世界遺産に指摘されるような神社、仏閣、そして世界遺産に指摘されなくても古い伝統ある神社、仏閣などを眺めることができるのです。 ブログランキングに参加しています。応援クリック御願いします。
ブログを開いて早くも半年過ぎました。その間毎週硬い話ばかり書いてきましたので、ここらでちょっと気分転換に話題を変えて書いてみました。私の年代の人たちは、みな若い頃映画ファンだったのではないでしょうか。映画産業が全盛期でしたからです。しかし年をとると大体映画を見なくなる傾向にあります。しかし私は違います。現在でも映画をよく見る方です。毎月一本は必ず見ますから、年間15本ぐらいの映画を見ています。 私の若い頃は、洋画が全盛期だったような気がします。あるいは洋画ファンだったからそう思うのかもしれません。日本映画にしろ洋画にしろ、昔は美人じゃないと女優なれません。そのため洋画でも美人女優がキラ星のごとく沢山いました。その中でも私が最も深く魅了されも、ものすごいファンになってしまったのがマリリン・モンローです。 数あるモンロー映画の中で、一番衝撃的で印象深い映画は、「七年目の浮気」です。彼女が29歳の時の作品です。まさに彼女の全盛期の素晴らしい肢体と魅力を思う存分見せ付けてくれました。映画のシーンの中で共演者の男優が、モンローを見た途端一瞬ボーっとする場面がありますが、私は映画の最初から最後までただモンローの動きに釘付けになり、ただボーっとして彼女の姿だけを追いかけていたような気がします。スクリーン上の彼女は、まるで動く大人の人形のように可愛らしく、魅力的で、その人形が人間の言葉をしゃべってくれる、その上その声がまたすばらしいので余計たまらなく魅力的になってくる感じでした。 スクリーン上の名場面は、共演の主役の男優と二人でお互い指一本で戯れながらピアノを弾く場面です。この時の彼女の生き生きとした無邪気で、モンロースマイルと言われる素晴らしい笑顔に、なんとも言えない魅力に圧倒されました。彼女の笑顔を讃えるモンロースマイルと言う言葉は、彼女の死後、心理学用語、すなわち学術用語になりました。モンロースマイルは少女たちの悲しい生い立ちを物がたる意味になったのです。事実、モンローには、悲しい生い立ちがありました。 彼女は生まれた時、母と娘たったふたりきりの母子家庭でした。彼女が7歳の時母親は精神病になり入院します。モンローは孤児院に預けられます。里親になりたい人たちがその孤児院に訪れ自分の気に入った子を養子として受け入れます。当時のアメリカ政府は里親になった夫婦には、ある一定の金銭を援助しました。その援助金目当てにわざわざ里親になる夫婦も多く、里親の中には人間的にあまり良くない人もいました。モンローは何組かの里親たちの間をたらいまわしのように預けられたと言われています。その環境があのモンロースマイルという素晴らしい笑顔を生む原因になったのだ。 すなわち親の愛情に恵まれない子どもほど周囲の大人に気にいられようと魅力的な笑顔を振りまく傾向があるというのです。そのため彼女の死後、モンロースマイルは、心理学用語になりました。彼女が16歳の若さで結婚したのも愛情ほしさのためだでしょう。20歳で離婚。軍需工場で女工として働いていた時、プロのカメラマンの目に留まり、モデルとして新しい人生のスタート。これから花形映画女優になるまでのモンローの私生活は決してきれいごとではすみません。自分の肉体美を有効に利用して花形映画スターへの道をのしあがっていたというしたたかな面を持ち合わせていたのも確かです。 彼女にとって不運だったのは、夫、元有名野球選手のディマジオとの間で二回流産を経験し、子どもが生めない女になってしまったことでしょう。薄幸な少女だった彼女は、幸せな親子関係の夢を描いていたからです。流産が彼女の運の分かれ目だったのではないでしょうか。その後ディマジオとも離婚、その後有名な脚本家と再婚したり、離婚したり私生活はにぎやかでした。モンローの私生活の中でも最も驚いたのは、暗殺されたケネディー大統領と不倫関係だったことが暗殺後暴露されたことでした。 モンローとの不倫関係が暴露された時、私はケネディー大統領への同情はなくなり、死んで当然のような気さえしました。ケネディーの父親は、禁酒法時代に密造酒で大儲けしたりして莫大な財産を一大で築き上げ、そのおかげでケネディーは、お金には何不自由なく育ち、大学卒業して海軍に入るまで、働いてお金を得た経験もないのです。除隊後も働く必要もなく、父親のお金で選挙運動して下院議員に、また父親のお金で大統領選に出馬、アメリカ史上最年少の43歳で大統領に当選。これだけでもケネディーは幸せ者です。それが大統領就任2,3年後には、あの世界の大女優モンローとの不倫関係が始まったのです。 これでは、私のような極貧育ちで貧乏サラリーマンにとって、ケネディーはあまりにも恵まれすぎです。これでケネディーが天寿を全うして死んだとなったら、あまりにも人生不公平です。人生よくしたものであまりにも恵まれすぎは、どこかで痛い目にあうものなのだ。ケネディーには暗殺されるという形で表れたのだ。モンローは、モンローで自分の肉体を有効に使ってのしあがってきた過去があります。大統領と関係を持つことほど強力な武器はないと彼女が考えたとしても無理はない。大統領暗殺後モンローは、弟のロバート・ケネディー司法長官と関係を持つたとも言われています。 モンローは結局36歳の若さで死ぬのですが、もうその頃には、精神科医、睡眠薬とアルコールづけの生活が続いて、撮影現場の彼女の遅刻癖は、常習犯になっていました。監督が彼女に役を与えるのが恐くなっているような状態で、彼女は役がもらえなくなっていました。それがまた睡眠薬とアルコールに拍車をかける悪循環に陥ってしまった。彼女の死は、過度のアルコールと過度の睡眠薬による事故死になっていますが、彼女はあの時死んで本当に良かったと思います。他殺死のうわさもあります。私は熱烈なファンですから他殺死関係の本を読みました、しかし他殺死は信じることはできません。 彼女はあのまま生き続けたら、役はもらえなくなりジリ貧に陥り、肉体美の衰え、そして結果的に母親と同じで精神病院に送られるということが充分想像できるからです。彼女には酷な言い方になりますが、彼女の死は惜しまれる死ではなく、彼女のためにも死んでよかったのではないかと思わせる死です。彼女の若すぎる死が、彼女の名声を永遠にしたのです。 日本人女優で最も私の心を捉えたのは、藤純子(ふじじゅんこ)です。若い人には藤純子って誰?ということになるでしょう。現在名前を変えて富司純子(ふじすみこ)の芸名でおばさん、ないし初老の女性役を演じています。それでもわからなければ寺島しのぶの母親といえば分かっていただけるでしょう。 私は30歳前後の頃、株式投資の勉強をしていて株に熱中していました。或る時、東映の株を買いました。そのとき株主優待券が手に入り、それを利用して見た映画が「緋牡丹博徒」(ひぼたんばくと)でした。この映画の女主人公「お竜さん」役を演じていたのが藤純子でした。 演歌や歌謡曲、フォークソングにしても決して名曲でもないのになぜあの時ヒットしたのかまったくわからない曲がときどきあります。映画にもあります。なぜあの作品がアカデミィー受賞なのか理解できない作品も多々あります。「緋牡丹博徒」(ひぼたんばくと)のお竜さんシリーズを全部見ましたが、映画そのものは、名作でもなんでもありません。「緋牡丹博徒」を見て、時には涙ぐむ時もありました。そんな時、「おれは、馬鹿じゃないのか、ヤクザ映画なんか見て涙ぐんだりして」と思ったりしたこともありました。 とにかく後年、もう一度ビデオで見たいと思うような作品ではありません。それでも人気が非常に高かったのは、お竜さん役を演じる藤純子のスクリーン上でのあのさっそうとした魅力でしょう。藤純子は、洋服より和服の方がよく似合うことは確かです。画面ではすべて和服でとおしています。ヤクザ映画ですから当然男性客が多いい。私を含めて男どもは、映画の内容より藤純子を見に映画館にやってくるのです。それでは藤純子の魅力とはなにか、これが説明するのがむずかしいのです。 私の独断と偏見で言わせてもらえば、藤純子の魅力は、映画の主人公、お竜さんこと矢野竜子という人物の魅力からきているのではないかと思うのです。時代設定は、明治から大正にかけてのヤクザの世界です。矢野竜子は、粋できれいな若い女渡世人です。女渡世人であるという孤独な影を背負っています。矢野竜子には恋人がいません。恋人ができかかっても、その恋人はヤクザに殺される筋立てになっています。普段は非常にしとやかで、礼儀正しく、品のある非常にやさしい女性です。とても渡世人には見えません。切った張ったの修羅場になると、映画「極道の妻」に出てくる女ヤクザのように大声をあげたり、下品な言葉は吐きません。時には目に涙を浮かべながらドスをふりまわし、あるいは頭にさしたかんざしを手裏剣がわりに使いながら、男どもバッタ、バッタとやっつけるのです。こういう矢野竜子という女性を藤純子は実に見事に演じているのです。 私には自分かってなきまりがあって、洋服には笑顔、着物には微笑みが似合うと決めています。現在の若い女性が、着物を着慣れていないから歩く姿がさまになっていないのはしかたがないことです。そのことをあえて非難するつもりはありません。しかし着物を着ているのに口を大きくあけてゲタゲタ大声で笑う女性ほど興ざめするものはありません。ついでだから言っておきますが、着物には白いタビがつきものです。真っ白さは清潔さを現します。彼氏が彼女の白いタビを脱がせたてあげた時、「汚ねぇ足首」が現われるほどムードをぶちこわすものはない。最高のムードが一瞬にして冷え込みます。女性は注意した方がよいと思います。 スクリーン上でたまに見せる藤純子の微笑みは、絶品です。当時の私は、これほど気品のある、また色気もあるすばらしい微笑みをもった女優がいるだろうかと思いました。現在、ビデオを見て同じように感じるかどうかわかりませんが、当時はそう思ったのです。とにかく当時、藤純子の人気はすごかった。お竜さんを演じた藤純子の数々のシーンが写真集として売られたくらいです。藤純子主演の女ヤクザ映画の盛りが過ぎた頃、彼女は結婚した。確か、結婚後だと思います。 藤純子(ふじじゅんこ)から富司純子(ふじすみこ)に名前を変えました。その理由は、私は知りません。しかし名前の変更は、私にはファンサービスと自分で解釈しています。なぜなら藤純子と富司純子を別人扱いできるからです。数年前、NHKの大河ドラマの中で年老いた尼さん役を演じていましたが、あれは年取った富司純子であって、藤純子とは別人と思いきることができるからです。かくしてさっそうたるお竜さんの藤純子は、そのイメージが損なわれることなく、これからもわたしの心のなかで生き続けることになるでしょう。 もう一人私の心を捉えた日本人女優がいます。私の心に強烈な印象をあたえながら、最近ではその印象がどんどん薄れてゆく女優。それは松坂慶子です。私が最初に強く惹かれたのは映画ではなく、テレビの歌番組です。彼女が主演していたドラマの主題歌「愛の水中歌」を歌っていました。それから彼女の映画やテレビドラマを見るようになりました。私は普段あまりテレビを見ませんが、彼女が出演するテレビドラマは、ちょくちょく見ていましたが、いまでは全く見なくなりました。 現在の彼女は、あいかわらずきれいですが、年齢と太りで全盛期の魅力がなくなってしまいました。彼女の容姿の全盛期は、1980年代でしょう。スタイル、顔、声、三拍子完全にそろっていました。私は日本のマリリン・モンローだと思っていました。この全盛期にコミカルな演技も上手な彼女で、日本版リメイクした「七年目の浮気」を映画製作したらきっとヒットするにちがいないと考えていましたが、実現しなかったのは残念でなりません。 私のような映画ファンで松坂慶子ファンにすれば、彼女にもう少し映画女優としてのこだわりを示してほしかったと思っています。吉永小百合を見て下さい。彼女は松坂慶子よりずっと年上です。映画女優としてのこだわりをもっています。テレビドラマなどにはめったに登場しないでしょう。 これはあくまでも松坂慶子の一ファンの想像ですが、彼女が映画女優としてのこだわりが持てなかったのは、彼女の夫、ジャズギタリストの稼ぎが少なかったからではないかと考えてしまうのです。気のせいか彼女に最初の娘が生まれてから、急にテレビ出演する機会が増えたような気がします。彼女が50歳の時、彼女のヘアー丸出しのヌード写真集が出版されました。相当なお金が彼女に支払われたのでしょう。 私は彼女の夫、ジャズギタリストに言ってやりたいね。男というものは、自分の女房が例え有名人であろうとなかろうと、自分の女房のヘアー丸出しのヌードなんか、いくら金を積まれても誰にも撮らせないものなのです。その亭主の反対を押し切って、ヌード写真を撮らせる女房なら、それはもう離婚ものです。松坂慶子にしてももう大女優になっているし、50歳にしてやることではありません。品性がなさすぎます。 ジャズギタリストでは、自分一人を養うことはできても、松坂慶子と二人の娘を高い生活水準で養うことはできません。その分彼女が働きまわらねばなりません。私みたいな他人にどう言われようと、夫婦円満であればそれで良いのですが、なまじ稼ぎのすくない男を夫に選んだため、松坂慶子というまれにみる逸材をテレビドラマなどで浪費したような気がしてなりません。彼女はいつの間にかテレビタレント化してしまったのだ。あの写真集事件以来、私の松坂慶子への関心が完全に薄れてしまいました。 その松坂慶子は、今年は賞づいています。NHK放送文化賞を受賞。さらに学術、芸能、スポーツに貢献した紫綬褒章まで受章です。中年女性50歳にしてヘアー丸出しヌード写真をとったことなど彼女の経歴の汚点になっていないのです。世の移り変わりほどはげしいものはありません。まさに時代が変わったのだ。私に言わせれば、松坂慶子がまさかポルノ女優に夢をあたえる女優になるなどとは想像すらしていませんでした。 ブログランキングに参加しています。応援クリック御願いします。
まず初めに緊急御知らせ。昨日NHKの偏向放送に反対するデモが渋谷で行われました。今月初めのNHKスペシャル「JAPANデビュー」のあまりにも激しい偏向放送に対して我々の日頃のNHKへの不満が一挙に爆発した感じでした。デモ参加者1,100人、組織化されていない一般デモとしては大変な数です。私は、これまでにいくつかのデモに参加していますが、昨日のデモは、最高に盛り上がったデモでした。 それでは本題に入ります 戦前までの日本には、ほとんど存在しなかったが、戦後に現れた新種の日本人がいます。その新種の日本人とは誰のことか。それは反日日本人のことです。戦前の日本の国家権力や権威は、現在の日本とは比較にならないほど高いものがありました。そして国民の愛国心も非常に高いものがありました。だから例え外国が日本批判しても、それに便乗して日本人が日本批判しようものなら多くの国民から国賊扱いされ、反日日本人が出現するすきがなかった。 しかし戦争で負けたため、日本国家の権力、権威を地に落ちてしまった。国民の強い愛国心もさめて弱くなりました。その間隙をつくように出現したのが反日日本人です。その反日日本人も終戦直後は、戦勝国の権力、権威にこびるのを主としていた。例えば横田喜三郎、当時東大法学部国際法主任教授は、東京裁判が開かれていて判決がまだ出ていない時に、東京裁判を肯定し、天皇制維持反対を書いた「戦争犯罪論」を出版しています。当時の日本占領軍最高司令官、マッカーサーを喜ばせたことは間違いない。 ところがこの二、三十年の間に反日日本人の質が悪質になった。外国の権力、権威に媚びるだけでなく、戦時中の日本が不名誉な事件を起こしたわけでもないのに、わざわざ不名誉な事件を捏造したり、あるいは史実を歪曲してまでも日本を貶め、外国に日本を批判させるのが流行とさえ言える有様です。「従軍慰安婦」事件はその代表的な事件です。吉田清治という一市民が、自分が朝鮮人女性を強制連行して「従軍慰安婦」にしたといううその本「私の戦争犯罪――朝鮮人強制連行」を出版。朝日新聞は、この本の内容を何一つ検証することなく大々的に執拗に何度もとりあげ、吉田清治を英雄のように扱った。 日本を貶めることで生計を立てていると言われている人権屋で売国奴的弁護士の高木健一、戸塚悦朗、「従軍慰安婦」の専門家と言われた吉見義明、中央大学教授など反日日本人たちが目白押しにこの「従軍慰安婦」事件で活躍しています。この事件の詳細に興味ある方は、私の拙著「原爆正当化のアメリカと『従軍慰安婦』謝罪の日本」(展転社)を参照してください。 さらに自分の出世のために、日本の外交問題でも外国の主張を鵜呑みにして外国有利に発言したり、本を出版する学者まで続出していることです。2000年初め亡くなった井上清という歴史学者、京都大学名誉教授です。私は歴史に興味あるから言いますが、東大、京大などろくな歴史学者おりません。この井上も戦前は、文部省の仕事をしていたのが、戦後転向、共産主義者になり天皇制廃止を主張したり、元号を廃止して西暦を採用しろと主張したり、極め付きは彼が「尖閣列島――釣魚諸島の史的解明」を著したことです。釣魚諸島とは尖閣列島の中国式呼び名です。この本で井上は、尖閣列島は中国の領土だとはっきり書いたことです。中国は喜んだのは当然です。井上は北京大学に招かれています。 今年の2月23日、「竹島の日」の翌日の産経新聞によると、当日竹島が日本領であることを否定する内藤正中、島根大名誉教授の本「竹島=独島問題入門」の出版記念集会が竹島で開かれました。また知韓派の東京芸術大学教授が「勇気ある大学教授」ともちあげられソウル大学教授への就任が決まった例もあるとも書いています。 これまで述べてきた反日日本人を一言でいうと、実に人間性がいやしい。だってそうでしょう。史実を歪曲したり、史実になかったことをあったことにして自分の祖国を足げにしているのです。外交問題でも日本と外国の主張が違えば、日本人であれば日本政府の言い分を主張するのが、日本人としての常識でしょう。それを外国の主張に相乗りして日本批判して外国から歓迎される。私が怒りを感ずるのは、こういういやしい性格の持ち主の反日日本人が、大手を振って悪びれもせず平気で町を歩いていることです。今まで私たち真正日本人は、これら反日日本人を比較的寛容的な目で眺めていましたが、現在もうそんな余裕はありません。彼らとは決然とした対決姿勢を見せなければならない時期にきています。 保守の中には北朝鮮が日本に一発ミサイルをぶち込めば、日本は一変し即一致団結するという人がいますが、そんなことは決して起こりません。これからも日本を貶めたり、日本外交の足を引っ張る反日日本人の行動は弱まることはありません。なぜか、次のような二つの理由があるからです。 1.国家権力の著しい低下。 敗戦によって大日本帝国は、崩壊し、それと同時に日本の国家としての権力、権威が崩壊してしまいました。戦後のすごい経済発展で日本は国家としての威信は回復しましたが国家権力はほとんど回復していません、依然著しく低いままです。皆さんに質問があります。一体国家権力の根本とは何でしょうか。私は国家権力の根本とは、軍事力を掌握していることだと思います。大国であろうが小国であろうが、その国が自国の軍事力を自由自在に使えることが国家権力なのです。 現在の日本は自衛隊という軍事組織を持ちながら自由自在に使いこなせないのです。北朝鮮の拉致問題、これは北朝鮮に戦争をしかけて拉致された日本人を救うのが国の仕事なのです。それができない。自衛隊がなにかする度に米軍の協力が必要です。ソマリアの海賊防衛の自衛艦派遣すら国会の決議が必要なのです。国家の権力のなさは、自然に権威のなさにつながります。歴史を見て下さい。権力も権威もない国家は、必ず内部分裂します。現在の日本は、完全に分裂しています。 私たちのような真正日本人と反日日本人に分裂しています。真正日本人は、現在の日本国家にもっと権力をあたえて強固な日本にしようとするのに対して、反日日本人は、現在の弱い日本をさらに弱くして日本崩壊に導くか、あるいは自分の出世のために祖国を貶めるのに夢中になっているのです。 私たち真正日本人は、もう反日日本人に対する傍観的態度をとる余裕はありません。徹底的に敵視し対決していかなければなりません。昨日のNHKへのデモの参加者には、NHKに対する激しい敵視、対決がありました。 2.中国諜報機関の浸透 私たちは、現在中国諜報機関、すなわち中国のスパイ活動にあまりにも無警戒ではないでしょうか。北朝鮮にあれだけに数の日本人が拉致されているにもかかわらずいまだにスパイ防止法も国家反逆罪法も制定されていません。まさにうぶでバカでお人好し外交そのものです。 中国はアメリカも認めるスパイ大国です。中国に現在の共産党政権を誕生させるためにソ連のスターリンが莫大な資金と武器と大量の共産党スパイを中国に送り込んで毛沢東の共産党を助けています。毛沢東の共産党が政権とれなかった場合も考えて蒋介石の国民党をも援助しています。毛沢東の共産党は、自分のスパイを蒋介石の国民党にもぐり込ませ、蒋介石の国民党は、毛沢東の共産党に自分のスパイをもぐり込ませ、両方で激しいスパイ合戦、両方でスパイ狩り、そのための壮絶なスパイ拷問が行われました。 結局、毛沢東の共産党が勝って戦後、現在の共産党政権が誕生したのですが、その功績はスターリンの莫大な資金、武器、大量のスパイの援助です。莫大な資金と言っても見当つかないでしょうから、一つ数字をあげますと、昭和17(1940)年だけで現在のお金の換算すると450億円から500億円を中国共産党に支出しています。従ってこういう建国時の経歴を持つ現在の中国政府は、大量の資金と大量のスパイを日本に送り込んで、日本の保守層が望む強力な日本が誕生しないようあらゆるスパイ活動していることはまちがいありません。 昭和47(1972)年、当時の田中角栄首相が北京を訪問し、日中国交が正常化しました。田中首相が宿泊先の北京のホテルに一室に案内されました。その時田中と、同行した大平外相の二人がびっくりしたのは、部屋には田中首相の大好物のあんぱんと柿が用意してあったからです。戦後からそれまで日中国交が断絶していたも同然で民間の交流など全くありません。そんな時でも中国のスパイは、田中首相の個人的な嗜好物をさぐりあてていたのです。中国は日本のことはなんでも知っているぞという田中や大平に対する中国側の無言の圧力です。当時大平外相は、「ひょっとして日本に戻れないのでは」と危惧したというのです。 平成8年、自民党の橋本竜太郎が首相になりました。その橋本が首相在任中に中国の女性スパイと懇ろになった。一大スキャンダルになるはずでした。ところが週刊誌で少し騒がれただけで新聞紙上には全くと言っていいほど振れなかったのではないか。私は当時日経新聞を購読していたが、日経はなにも触れませんでした。産経は記事にしたのでしょうか。この時期中国のスパイ網は、すでに日本の主なマスコミ、朝日やNHKなどを掌中におさめていたと言えます。だから日本のマスコミは、事件を追及しようとはしなかったのです。 それにしても中国の女スパイがどうやって橋本首相に近づいていったのか。さすがと思わせるものがあります。首相さえ簡単に彼らの餌食になるくらいですから、多くの大臣や政治家が女スパイや金、俗に言われる中国のハニートラップにひっかかり弱みを握られているか想像はできます。 平成16年、上海の日本領事館の男性館員が女性関係を問題視され中国当局から日本の機密情報の提供を求められたのを苦にして遺書を残して自殺した。この時テレビのニュースでもちょっととりあげられた。当然のごとく中国政府は関与を否定。この男性館員は、完全に中国の女スパイにやられたのだ。しかし彼は、非常に良心的です。日本の機密情報を提供するかわりに遺書をのこして自分の命を絶ったからです。 北朝鮮の拉致事件や橋本首相の中国女性スパイのスキャンダル、上海の日本領事館男性館員の自殺事件などなど、スパイ防止法や国家反逆罪の制定の動きがあって当然なのに全くその気配さえありません。私は多くの保守系議員が、金ないし女のハニートラップにかかって中国に弱みを握られているのではと思っています。外交的には日本人はうぶでバカでお人よしです。中国の罠にはまるのは簡単です。 日本にとって非常に参考になる例があります。ソ連という国が健在のころドイツは、民主主義の西ドイツと共産主義の東ドイツに分かれていた。東ドイツには、ソ連の秘密警察ケージービーに匹敵するシュタージという秘密警察があった。去年ドイツ映画で、このシュタージの内容を描いた「善き人のためのソナタ」が公開されました。ソ連の崩壊とともに東ドイツ政府も崩壊してしまった。その時東ドイツの秘密警察シュタージの極秘ファイルが西ドイツ政府の手に渡りました。 西ドイツ政府は、その極秘ファイルを見て仰天した。あまりにも多くの有名、無名の西ドイツ国民がシュタージに協力していたからです。西ドイツ政府は、最初その極秘ファイルの内容を発表するつもりでした。しかしあまりにも多くの西ドイツ国民の協力ぶりを知って、もし内容を発表したら国内が騒乱状態になりかねないとして発表を中止してしまいました。 現在の日本を見て下さい。スパイ防止法もなければ国家反逆罪もない、政治家も国民も愛国心や国家意識が薄い、企業も自分の製品が最終的に軍事用に転売されようが全く気にしません。国民は外交的にうぶでバカでお人良しです。それこそ有名、無名、数え切れないほどの日本人が、中国の諜報機関に協力していることでしょう。最近我々真正日本人が仰天するNHKテレビ番組がありました。NHKスペシャル「JAPANデビュー」の一回目の放送は、日本と台湾の親密な関係にくさびを打ち込もうとする中国の意向をそのまま放送したものです。反日番組を制作スタッフは、もう完全に中国の意のままに動かされている証明です。 上記(1)(2)のため、反日日本人がなくなることは有り得ません。我々真正日本人の数より増えることはありませんが、ますます強力になりつつあります。反日日本人が日本のマスコミを握り、中国と韓国の支援を受けているからです。もう私たち真正日本人は、反日日本人に対して対決姿勢をとらなければなりません。先週書いた「中国との付き合い方」で振れました中国の「人口侵略」と、中国スパイ網による「情報侵略」、それに反日日本人が加わり、中国は「武力侵略」することなく日本を自国の裏庭のように支配することが可能になりつつあります。一日も早いスパイ防止法や国家反逆罪法の制定が望まれます。 一つ提案があります。真正保守なんという言葉を使うのは止めましょう。そのかわり真正日本人という言葉を広めましょう。反日日本人に心理的圧力を加えるため、反日日本人の対極する言葉として「真正日本人」をもっと広めましょう。 ブログランキングに参加しています。応援クリック御願いします。
ならず者国家、北朝鮮と言われて久しい。そのならず者国家の親分にあたるのが中国です。この中国とどうつきあっていくのか、今後の日本のカギであることは間違いない。それでは中国とどう付き合っていくか。人と人のつきあいも、国と国のつきあいも、その付き合い方は、次の三つしかありません 1.できるだけつきあわない。 2.よく知っている知人程度につきあう。 3.親密につきあう。 (1)は、地理的に非常に近いし、国際貿易として日中両国お互いが必要としています。したがって(1)のつきあいか方は、非現実的なので除外の対象です。残るは(2)と(3)のつきあいかたになるのですが、私として推奨は(2)です。(3)は賛成できません。なぜか。理由は簡単です。中国は「うそ」の国であり日本は「誠」の国だからです。中国人のうそつきは天才です。なぜならうそをついたら、そのうそを50年でも100年でも平気でうそを言い続け、その間にうそのうわぬりをし、真実にしてしまうのです。勉強でもしないとそのうそを見抜けなくなってしまいます。 一方日本には、「至誠天に通ず」という言葉があります。日本人にはこちらが誠心誠意をつくせば相手が自分の気持ちを理解してくれるはずだと考えます。それでも最悪の場合こちらの気持ちが全く理解できないかもしれない、とここまでは考えることができます。しかし自分の誠心誠意が悪用されることまで考えが及ばないのです。だから私がいつも主張するうぶで、バカでお人好しの外交を繰り返すことになります。 このように「うそ」の民族と「誠」の民族が親密になると、まさに経済学用語とも言うべき「悪貨は良貨を駆逐する」の言葉通り、「うそ」の民族が得をし「誠」の民族が損することになっているからです。去年は日中平和有効条約が結ばれて30年目のふしめの年でした。日中平和友好条約が結ばれた当初は、中国の影響力が小さく1980年代は、日本経済の最盛期でした。 しかし日中関係が密接になればなるほど、得したのはどちらですか。中国でしょう。またその間日本は天文学的数字の経済援助をしてきました。損するのは日本ばかりでした。中国の経済力は伸び、世界への影響力が非常に高くなりました。一方日本は、日中関係が仲良くなればなるほど、経済力が衰え、世界での日本の影響力は、経済面でも以前より小さくなりつつあります。このように日中関係が親密度を増せば増すほど日本は損することになります。これはなにも経済関係だけにとどまりません。文化面でも日本は損することになるからです。 話は変わって日米関係を見てみましょう。戦前に較べて日米関係の親密度は、非常に深まりました。そのため文化面でも多分にアメリカないずされました。しかし日本の民族性や文化の根本までアメリカないずされることはありませんし、またその恐れもありません。なぜなら日米は距離的にも非常に遠いいし、民族は違う人種ですし、文化の類似性もなにもありません。従って日米の親密度が深まっても恐れることはありません。ましてやアメリカは民主主義国家です。 しかし日中関係は違います。日中間は距離的にも非常に近いし、民族的にも同じ人種で黙っていれば中国人だか日本人だかもわかりません。中国人が流暢な日本語を話せば、誰も日本人と思ってしまいます。文化の類似性もあります。ましてや中国は、共産主義国家です。日中間の親密度が増せば増すほど中国人がどっと日本に押し寄せてきます。人件費が日本の方が高いからよけいに日本にやってきます。 中国得意の人口侵略です。もうすでに日本への人口侵略が始まっています。満州は、中国人にとって毛外の地、すなわち万里の長城の外でした。日本が満州を開発し、発展したうえ治安が安定していたために、どっと中国人が移り住み、今では中国の領土です。満州人でも満州語を話す人がいなくなってしまいました。 チベットもウイグルも中国人がどっと押し寄せて住み着いて、女性は強制的に中国人と結婚させられてしまいます。中国語が話せないと公務員になれません。現在中国人は、ロシアのシベリア地方にどっと移り始めています。逆にシベリアに住むロシア人の人口が減り続けています。このためこれまで中国の兵器はほとんどロシアからの輸入でした。しかし最近ロシアは、長い中ロ国境をかかえ、特にシベリアでの中国人増加に敏感になっていて新兵器の中国輸出は完全に中止しています。中国の人口侵略への警戒です。 この人口侵略は、日本にとって非常に脅威です。なぜなら日本は、若年人口が急激に減っているからです。今年で15歳以下の子供の数は28年連続して低下しています。非常に危機的な段階です。経済規模が縮小します。現在の経済規模を維持しようとすると、日本の大学はますます外国人留学生を頼るようになり。企業も景気が良くなれば若い外国人労働者が必要になってきます。 私の主張は、例え経済規模が縮小しても、外国人、とくに中国人や韓国人をもうこれ以上日本に住ませるべきではありません。「日中間の有効が深まれば、それが世界平和につながる」などと美辞麗句を言う日本人は、日中間の親密度が深まれば自分がなんらかの形で得をするそのように主張しているだけの話です。 結局、中国との付き合い方は、(2)番目のよく知っている知人ていどの付き合いをする。これが最良です。しかしこれにも条件があります。その条件とはなにか。日本の軍事力を強化することです。現在の日中外交を見て下さい。中国側が完全に主導権を握っています。日本は中国側の意向に右往左往するだけ、いつもなんらかの譲歩で終わっていたり、中国側の行動にいらいらしながら見て見ないふりしているだけです。 なぜこういう事態になるのか、中国と日本では軍事力に差がありすぎるからです。手元にある数字を拾ってみましょう。日本の陸上自衛隊15万人、中国陸軍106万人、韓国陸軍56万人、核弾頭保有数、日本零、中国176発。日本の軍事予算、過去七年間連続して前年度の1パーセント削減。中国の軍事予算、10年連続10パーセント以上の増加。もう日本は中国の軍事力の前では赤子同然です。だから外交で日本には横柄に振舞えるわけです。もともと横柄な民族だから、外交もたちが悪い。それでいて日本は過去30年間に天文学的数字の経済援助をしてきたのです。 まさにうぶでバカでお人良し外交です。日本は日米軍事同盟があるから、日本に軍事力が中国と同等である必要はまったくないが、それにしても開きに差がありすぎます。日本の軍事力増強が日中の共存共栄を中国側に起こさせるのです。中国の崩壊も予想される現在、日本の防衛力強化は急務です。中国が崩壊すれば、難民がどっと押し寄せるでしょう。また日本在住の中国人は、家族を日本に呼び寄せるでしょう。これを押しとどめるには強力な軍事力が絶対に必要です。 現在不況中で、日本では年がら年中福祉、福祉と叫ばれています。福祉は選挙に響きます。政府もそれに答えようと福祉予算がふくらむ一方です。しかし福祉は、外交になにも役立ちません、日本の独立を守ることにも一切役立ません。 要するに結論は、日本は軍事力を増強し、中国とは「よく知っている知人」程度のつきあいをすること、決して親密なつきあいをしないこと。ましてや中国人留学生や労働者を大量に受け入れるのは、日本の消滅の始まりになります。不法滞在中国人は、どしどし本国に強制送還させねばなりません。 ブログランキングに参加しています。応援クリック御願いします。
人間一人一人に長所や短所があるように、民族にも長所や短所があります。長所短所は、紙一重というように、長所が短所になる場合もあるし短所が長所になる場合もあります。例えば、日本民族の特徴の一つとも言うべき「空気を読む」は、長所になる場合もあるし短所になる場合もあります。先週の「日本の知識人は、バカやアホが多いい」で知識人の欠陥である「現実を直視しない」は、日本国民の欠陥でもあります。欠陥は欠陥であって、短所のように長所になる場合は決してありません。日本民族は、「現実を直視しない」というよりむしろ「現実を直視できない」と言った方が適切ではないかと私は考えてしまいます。 すぐに例として浮かぶのが、数百人も北朝鮮に拉致されているにもかかわらず、スパイ防止法や国家反逆罪などがいまだに制定されていないことです。これすなわち現実を直視できないことではないでしょうか。 そこで今回は、私たちが無意識のうちに現実を直視せず、そのため遅れをとってしまったケースとこれまで「現実を直視せず」ほったらかしにしているため、今後の日本の致命傷になりかねないケース、この二つのケースを取り上げて説明してみました。 1.がん治療面での遅れ 昨年だか一昨年だったか、NHKテレビで「がん特集」の番組が数日連続して放送されました。その時テレビで、がん治療の面で日本はアメリカより遅れをとっている実態が示されました。がん治療で一番難しいのいは、抗がん剤を使いこなす技術です。患者の年齢、性別、病状、体質などで抗がん剤の使用方法が違ってきます。また複数の抗がん剤を混ぜ合わせて使用する場合はさらに難しくなります。この抗がん剤を使いこなす内科医のことを腫瘍内科医と呼んでいますが、この腫瘍内科医の数をアメリカと比較すると日本の腫瘍内科医の数が少ない。 アメリカの人口は、日本の倍以上ありますから日本の方が少なくて当然なのですが、人口比較を考慮に入れても日本の方がはるかに少ない。さらにがん患者を専門に扱う看護師の数になるとアメリカと比較して、日本の数は極端に少ないのです。NHKテレビではその原因を説明しませんでした。私はこの原因は、数十年前の日米のがん告知率の問題だと考えています。今でこそガンでも早期発見なら治るというのが常識になっていますから、「私はがんです」と平気で言っている人がざらにいます。 しかしいまから30―40年前は、ガンは不治の病、すなわち死の病でした。私の母は、いまから35,6年前、55歳で胃がんの手術をうけました。しかしこの時父の命令で母にはガン告知はしておりません。現在は早期発見だったら手術すれば直りますと医者はいえますが、当時は例え早期発見でも、直りますとは言えなかったのです。だからガン宣告は、すなわち遅かれ早かれ死を意味していました。この時日米で顕著に現れたのはがん告知率の差でした。 日本民族はやさしいし、情緒的です。自分の妻、両親、などの肉親に「あなたは、肺がんになっています。しかしなおす薬はない、だから余命は早くて半年後、あるいは長くて1年後です」と医者が言っていますなどとて言えません。私の母の場合は、胃に潰瘍ができているとごまかしました。かわいそうだとか不憫だとかという種々の私情がからんで現実を直視できないのです。 ところがアメリカ人は違いました。よっぽど前もって家族からの依頼がなければ、医者は平然と患者に告知し、病状をはっきり説明します。そうしないと後で法的に訴えられる恐れも当然あったでしょう。告知された患者は、動転して自殺した人もいるでしょう。この頃の日米の告知率の差は、もう忘れてしまいましたが、多分50パーセントぐらいの差があったのではないでしょうか。アメリカの告知率80パーセントぐらいだと日本の告知率30パーセントぐらい、アメリカの告知率が70パーセントだったら日本は20パーセントぐらいの感じじゃなかったでしょうか。 これだけの告知率に差があると仮定して、二人の30代前半の若い内科医、一人はアメリカ人医師がもう一人は日本人医師がそれぞれニューヨークの病院と東京の病院に勤務したことを想像してください アメリカ人医師は、自分の患者にがん患者を発見すると、すぐに告知して抗がん剤を使えますから、抗がん剤を使いこなす技術と経験を積むことができます。いずれ一人前の腫瘍内科医になれるでしょう。すぐに告知できますからガン患者ばかり集めた入院病棟、すなわちガン病棟できます。従ってガン患者専門の看護師が育ちやすい環境ができあがります。 一方東京の病院に勤務している日本人内科医は、自分の患者にがん患者が出ても告知ができません。従って抗がん剤が自由に使えないのです。抗がん剤を使ったら副作用が大きいから患者に自分は、がんではないかと疑われるからです。したがって抗がん剤を自由自在に使えない、従ってなかなか腫瘍内科医になれる経験を積むことができません。がん告知されていませんから、患者はがん患者ばかり集まっている部屋に入院させることはできません。結局一般病棟ということになり、がん患者専門看護師が育つ環境にはめぐまれません。 告知率低さの弊害は、これだけではありません。がん治療を促進するためには、がん新薬がどんどん開発されなければなりません。その新薬開発には、患者の協力がかかせません。製薬会社は、新薬を開発するために臨床試験、すなわち人体実験をしなければなりません。肺がんの新薬だったら、肺がん患者の人体実験でくすりの有効性をたしかめなければなりません。そこで肺がん患者に実験の応募者を募ります。特に末期ガンの患者、治療がはかどらない患者などはわらをも掴む気持ち応募します。こうして実際のがん患者の人体実験をとうして新薬が開発されます。 ところが告知率が低いと実際はガン患者が多いいのですけど、自分がガンと認識していないから人体実験の応募者が少なくなってしまいます。だから昔の抗がん剤は、輸入物がほとんどでした。現在でも輸入ものの抗がん剤の方が多いいのではないでしょうか。 私の母は、その後大腸がん、喉頭がんなど患って死にましたが。最後まで母にはガンを告知しませんでした。母はすでに自分はガンであることを察知していたかもしれません。しかし家族はなにも言わないから自分も知らないふりをするというきわめて日本的なあいまいさで病のかたをつけたような気がしてなりません。つらいけれども現実を直視して、対策をとり、母を含めて家族全員でガンにむきあっていくのが大切のような気がします。 がん患者は、他の病を併発せず、単にがんだけで死ぬ場合は、最後の息を引き取るまで意識があるといいます。告知率の高かったアメリカは、早くから末期ガンの患者を沢山かかえていましたから、末期ガン患者が平穏に安らかな死をむかえられるようホスピスという施設がアメリカから先に実現したことは当然のような気がします。 2.日本国憲法 戦後アメリカ占領軍が作った日本国憲法が施行されていらい62年たちました。また日本が独立を回復してから57年たちました。独立回復以来アメリカ占領軍が作った憲法が、廃棄されるどころか一つも改正されることもなく、100パーセントそのまま今でも使われているのは、世界の珍事の一つでしょう。 現行憲法の原文は英文ですよ、それだけでも誇りの高い私などは不愉快になります。とっくの昔に現行憲法を廃棄すべきだったと考えています。仮に一歩も百歩も譲って現行憲法を使うにしても当然改正すべきだったのです。皆さん、現実を直視してくださいよ。現在の近隣諸国の状況を直視してください。 北朝鮮は、200人以上とも400人以上とも言われる日本人を拉致し、日本列島の上空を核実験場にし、韓国は竹島を日本から略奪し、ミサイルを持っています。中国はミサイルも核兵器も所有、尖閣諸島の領有権を主張、日本の領海から石油を盗掘、ロシアは北方四島を日本から略奪、ミサイルも核兵器も所有、こういう現状の下に日本国憲法は日本に丸腰を要求しているのです。現在の日本は自衛隊がありますから、日本自体丸腰ではありません。しかし憲法で丸腰を明示しているため、自衛隊は「専守防衛」になっているのです。攻撃は最大の防御と言います。「専守防衛」で戦争に勝てますか。現実を直視してくださいよ。 このような近隣状勢であるにもかかわらず、国民が現行憲法「廃棄」あるいは「改正」で大騒ぎにならないのが不思議でならないのです。やはり日本民族は、「現実を直視できない」民族と考えるしかありません。 戦前の憲法は、「大日本帝国憲法」すなわち明治憲法を使っていました。この憲法にも致命的欠陥がありました。明治憲法には、首相の規定がないのです。改正すべきところを「不磨の大典」と呼ばれ改正すらできずに日本は、破局を迎えてしまいました。今度の憲法も致命的な欠陥がありながら、「不磨の大典」にしてしまったらこのまままた日本は破局に向かってしまう恐れがあるのが感じとれないのですか。 民主主義国家では、憲法は数年に最低一度ぐらいは手入れをします。人間のすることに完全はないし、時代が変われば憲法の内容とずれが出るのも当然だからです。アメリカ占領軍は、日本の憲法を作りましたが、ドイツの憲法も作っています。そのドイツは憲法の改正51回、徴兵制度まで導入されました。51回も改正すればドイツ人が作った憲法も同然。日本は改正まったくなし。日本人は憲法と実社会とではとっくにずれが出てきているのに改正もせず、平然としていられるのは、法事国家の国民と言えるのでしょうか。 明治憲法は明治政府が作りました。日本最初の首相になった伊藤博文が、プロイセンの憲法を下地にしてつくったも同然です。現行憲法はアメリカ占領軍がつくりました。いまだかって日本国民は、自分たちが作った憲法はないのです。この際現行憲法を廃棄して我々国民の手で新憲法を作ろうではありませんか。 憲法廃棄ないし憲法改正に反対する方々、「理想は大事だが、現実はもっと大事なのです」このぐらいのことわからないのですか。わからなければ、バカは死ななきゃ治らないといいますから、早く死んでください。あなたがたほど日本にとって危険な存在はありません。 私が最初に触れましたように日本人は「現実を直視しない」ではなくて「現実を直視できない」民族のような気がしてなりません。現実を直視して自分に都合が悪いと、「見て見ぬふり」をするのです。日光、東照宮の三匹の猿の彫刻。目に手をあて、口に手をあて、耳に手をあて、見まい、言うまい、聞くまいの猿の彫刻は、現実直視を嫌う日本民族を象徴するような彫刻ではないでしょうか。 どなたか私の主張を論破してください、いや、日本民族は現実を直視できますよ、これこれこういう事例がありますよと説明してくれればこれほどうれしいことはありません。いずれにしても、憲法が時代に合わなくなってからもう何十年も経っています。そのため日本外交がとれる政策の足かせになっています。 このまま改正もなにもしないでぐずぐずしていると、いずれ日本は混乱状態で改正しなければならなくなります。改正反対派の皆さん、どうぞ現実を直視してください。 ブログランキングに参加しています。応援クリック御願いします。
まず初めに間違いのお詫びを申し上げるとともに訂正を御願いします。先週「戦うことは貴いことである」の中に「パンパン(従軍慰安婦)」とありますが、正しくは「パンパン(米軍人相手の慰安婦)」です。「従軍慰安婦」という言葉は戦後、朝日新聞がかってにつくりだした言葉で、戦前の国語辞書にはありません。私自身の著書に、「原爆正当化のアメリカと『従軍慰安婦』謝罪の日本」というタイトルの本がありながら、こういう間違いを犯すとは、「もうろく」したのかと自分自身に腹をたてています。 今週の本題に入ります。 私は海外出張を沢山したが、海外に住んだことはありません。従って日本で生まれ、育って、生活して70年あまり。成人してから50年間私は、ずっと日本の知識人の言動を見てきました。そこで日本の知識人の印象はと問われれば、日本の知識人には、本当にバカやアホが多くて腹立たしいくらいです。 日本で活躍されている外国人で、オランダ人のカレル・ヴァン・ウォルフレン氏という人がいます。皆さんご存知かと思います。最近、彼はあまり日本で活躍していないようですが。彼は日本語を話すし、読むこともできます。書くこともできますが、ただ本を日本語で書くことはできません。平成元年に彼が書いた大作「日本・権力構造の謎」は世界12カ国に翻訳されたベストセラーなっています。 私はこのウォルフレン氏がきらいです。私は外国人が日本以外の国で東京裁判史観を披露したところで別に腹立ちはありません。しかし外国人が日本国内で東京裁判史観を主張しようものなら猛烈に腹が立ってきます。私の目や耳に入ってくるからです。ウォルフレン氏は、オランダ人です。私にいわせればオランダなどアメリカと同盟を結んでいたからこそ勝利国の仲間入りができたのです。それをウォルフレン氏は、堂堂と日本国内で東京裁判史観を披露するからきらいなのです。 オランダ軍など開戦早々日本軍にインドネシアから追い出されています。そのくせ日本敗戦になるやまたインドネシアに、オランダ軍を送り込み再植民地化しようとしたのです。 その時日本軍の中には敗戦で敵軍の捕虜になるよりインドネシア独立軍に参加してオランダ軍と戦うことに決めた日本兵の数およそ二千名もいるのです。その日本軍の支援もあってインドネシアはオランダから独立を勝ち取ったのです。 そのオランダがどうして大東亜戦争で正義面できるというのですか。だからウォルフレン氏がきらいなのです。その彼が平成7年に「日本の知識人へ」という本を出版しています。その本の冒頭で彼は、こう書いています。 「日本では、知識人がいちばん必要とされるときに、知識人らしく振舞う知識人がまことに少ないようである。これは痛ましいし、危険なことである」 私と彼とでは、知識人とはどういう種類の人間を言うのかではだいたい一致しています。知識人とは、主に政治問題に対して国民や政府に適切な助言や忠告をしてくれる人のことです。私は日本の知識人にバカやアホが多いいというのに対して彼は知識人が少ないと主張しています。このニュアンスの違いは、彼の文章で理解できます。彼はこう書いています。 「知識人として当然果たすべき役割を果たす知識人がいないかわりに、日本には沢山の学者、ジャーナリスト、文化人がいて――それと知ってか知らずか――意図的な情報(プロパガンダ)をまきちらしている」 このように彼は、学者やジャーなリストなど知識人と考えていないのです。一方私は、皆さんもそうだと思うのですが、日本では一般的に学者やジャーナリストや文化人を知識人と通常解釈しています。だからそういう人たちの50年余りの言動を観察すると、日本人の知識人には、バカやアホが多いいと主張するのです。 それでは日本の知識人は、なぜバカやアホが多いいのか。知識人の仕事は簡単に言えば考えることです。彼らの考え方、すなわち思考方法に欠陥があるからです。その欠陥には四つあると思っています。その四つを箇条書きにして説明を加えましょう。 1.自分の見たい目で物事を見る。 戦前弾圧されていた共産主義が戦後復活しました。日本を統治するアメリカ占領軍も共産党を容認しました。敗戦の憂き目に会い、戦前の反動もあって共産主義思想がもてはやされました。アメリカ軍による7年あまりの占領期間中は、知識人の共産主義国ソ連への肩入れには遠慮がありました。しかし日本が独立し、米占領軍が日本を離れると、知識人の共産主義思想への妄信が強まり共産主義国の盟主、ソ連が彼らのユートピアになったのです。 彼らは冷静な目で共産主義やソ連を見ようとせず、自分が見たい目で判断しました。要するに共産主義という悪女に魅せられてしまったといえます。その結果ほとんどの知識人が反米親ソになってしまいました。一般に私たちは、自分の見たい目で物事を見がちです。もう何年も前から中国が崩壊すると予言していた知識人がいます。しかし未だ崩壊していません。あまりにも自分の見たい目で中国を眺めていたせいでしょう。 2.現実直視ができない。 共産主義という悪女に魅せられた知識人を一方的には非難できないでしょう。なぜなら当時、共産主義に魅せられたのは、世界的な傾向だったからです。しかし日本の知識人は、ソ連の実態、すなわちソ連の現実を見ることができたのです。ソ連の実態とは、終戦間際ソ連は、日ソ中立条約に違反して、終戦直前の8月6日、日本に宣戦布告し満州に攻め込んできました。8月15日に日本は降伏し、武器を放棄しましたがソ連軍は攻撃を続け、日本軍軍人と日本人民間人あわせて60万人以上を捕虜にし、ほぼ全員をシベリアその他の強制労働収容所に放り込みました。さらにソ連軍は、北方四島を略奪しました。 戦後になっても何十万という抑留者は、日本に帰国できず、強制労働収容所に押し込められたまま厳寒のなか飢えと重労働で5万から7万の死者を出しています。最後に日本に帰国できた抑留者は、戦後12年間も強制労働収容所で働かされていたのです。北方四島は略奪されたままいまだに返還もされません。こういう現実がありながらソ連をユートピアのように崇めたのです。自分の見たい目でながめ現実を無視すると狂気になるとはこのことです。 戦後数年たつとさらにソ連国内の実態がわかってきました。ソ連には全く自由がないということです。出版、報道、言論の自由がない、信仰の自由がない、私企業を営む自由もない、農家がどの野菜を植え、どのくらいの収穫を上げるかの自由がない、海外旅行の自由がない、ほとんどあらゆる自由がないのです。日本の知識人は、国内でありあまる自由を満喫しながら全く自由がないソ連にあこがれたのです。どれほど彼らをバカ、アホよばわりしてもたりないくらいです。 だからこんなジョークが生まれたのもむりもない。ソ連は貧しく全く自由がないからソ連からの亡命者が後をたちません。そこでモスクワ飛行場でのジョーク。 入国管理局の職員が局長に向かって、 職員 「局長、我が国に亡命したいという人があらわれました」 局長 「我が国に亡命したいって、めずらしいねぇ、ほんとかよ、一体どこの国の人だ?」 職員 「アフリカのエチオピアです」 局長 「エチオピアか、我が国より貧しいからな、可愛そうに、亡命を許してやれ」 しばらくすると、また先ほどと同じ職員が現れて 職員 「局長、また我が国に亡命したいという人が現れました」 局長 「またアフリカか?」 職員 「いえ、違います。今度は日本人です」 局長 「え、なに、日本人? あんなに経済的に発展して、なんでも自由にできるのに、我が国に亡命? そいつはきっと精神病にちがいない。精神病院にいれとけ」 このようにバカでアホな知識人が出版、教育、法曹界などを牛耳ったのですから日本がおかしな国になるのは無理わない。今から30、40年ぐらい前でしたら、私の著書、「大東亜戦争は、アメリカが悪い」のようなタイトルの本などどこの出版社も出版を断ったでしょう。 3.時流、時勢、権力、権威に極端に弱い 昭和35(1960)年代は、日米安保条約改定騒動のあった時代です。日米安保条約改定は、簡単に言えば日米軍事同盟の強化です。ソ連や中国が日米軍事同盟強化に反対するのは当然です。しかしその四年前、昭和31年のソ連の共産党大会では、ソ連人民一千万以上が殺されたというスターリンの粛清が暴露されました。さらに同じ年にスターリンを批判したソ連政府は、武力で鎮圧したハンガリー動乱がありました。 それにもかかわれず反米親ソである知識人は、日本のためというより、ソ連や中国のために日米安保条約反対を叫んだのです。日本の知識人は、現在でもその傾向が非常に強いのですが、日本政府の権力や権威をごきぶりのようにきらいますが、外国、特に共産主義国の権力や権威に平然とひざまづきます。 戦前、戦中は政府や軍部の弾圧を恐れて知識人が一致団結して反政府行動に出る勇気など持ち合わせていなかったのが、戦後独立を回復して政府権力が弱まり、何でも言える世の中になって初めて一致団結して反政府行動に出たのです。大学の先生たちも、安保改定を叫ばないと学内で取り残される恐れを感じたのでしょう、先生たちほとんど全員が反対派になった。また大学生の政治組織、全学連も馬鹿騒ぎの活躍をした。名著「ローマ人の物語」を書いた塩野名七生氏は、この時学習院大生、「あの時はなにがなんだかわからず夢中になってデモに参加していた」と語っています。 安保改定阻止国民会議が結成された。その幹事団体は、社会党、労働組合、学生など計十三団体。連日数十万人のデモが国会周辺にあつまった。一番多い時で三十万人の集まったのです。しかし政府は、国会内で安保改定を強行採決。その代わり政府は、安保改定で大混乱を巻き起こしたという理由で、当時の岸首相が退陣させ、国会を解散して総選挙にうってでたのです。その選挙結果は、自民党政府の圧勝、解散前より議席数の数を増やしているのです。 当時の政治学者、蝋山政道氏は、安保改定騒動を一大国民運動と書いていますが、バカを言ってはいけません。一大国民運動だったらどうして総選挙で自民党が大勝できたのでしょうか。蝋山政道はさらに、安保騒動が岸首相の退陣だけで終わって、なんも成果も上がらなかった理由の一つに国民の無関心、特に外交問題の無関心をあげています。こうまでいわれると私も国民の一人として冗談言っちゃいけないよといいたくなります。安保改定反対なら、その代案を出すべきでしょう。その代案もださずにただ反対、ただ反対を叫ぶ人たちに誰がついていくものですか。 知識人はソ連の実態を無視したばかりではありません、当時のソ連に対する日本国民の感情を無視したのです。当時の国民感情とは、日本は敗戦したためにアメリカ占領軍の統治を受けたが、「アメリカ占領軍でよかった、あれがソ連軍の統治だったら大変だった」という感情です。 まだ生存しておられる哲学者の鶴見俊介氏は、自分が安保騒動で活躍したせいか、いまだにあの安保改定騒動を評価しているそうだが、バカやアホもいい加減にしろと言いたい。安保改定騒動時の総選挙の結果は、国民の良識、常識が知識人の妄想、盲動を阻止した歴史的瞬間です。 知識人があれほど崇め奉っていたソ連は、平成三年に崩壊してしまいました。日本の知識人にバカやアホが多いいことをこれほど証明するものはないでしょう。 3.論理的にものを考えることができない。 1.自分の見たい目で物事を眺める。2.現実を直視しない。3.時流、時勢、権威、権力に弱い。いままで説明してきたこの三つは、物事を論理的に考えさせなくしてしまう効力があります。したがって論理的に考えることができず、すべて情緒的に考えてしまうことになります。 昭和35年の安保改定後も、昭和42年には、中国で文化大革命。この時一千万人以上の中国国民が毛沢東によって殺されました。朝日新聞を初め日本の知識人は、これを礼賛するという醜態を演じています。昭和43年には、チェコ事件。チェコ共産党政権が言論の自由を認めたら、ソ連が武力介入しチェコ政府要員をソ連に連行。昭和54年には、ソ連軍アフガニスタンに侵攻、この時、日本を含む西側陣営は、モスクワオリンピックの参加を辞退しています。そして平成3年にソ連解体。 日本の知識人は、ソ連解体までソ連の行動にはすべて非難なし、あるのは日本とアメリカへの非難だけ。今では笑い話になってしまいますが、米ソ両国は、一時的に核兵器開発競争に血眼になりました。そのため両国は、核実験を繰り返しました。その時日本の知識人は、アメリカの核実験は、戦争目的でソ連の核実験は平和目的だと言う者まで出ました。原水協(原水爆禁止日本協議会の略)は世界中の原水爆実験禁止を訴えていたものが、ソ連の実験は容認しようとする一派が出て分裂してしまいました。バカやアホ相手に物事を論理的に考えろといってもはじまりません。 これら常軌を逸した知識人が、我が国にどれだけ悪影響をあたえたかはかりしれないものがあります。ソ連解体後一部の知識人は目を醒ましました。しかしまだなお多くの知識人が悪夢から覚めず、こんど中国などに肩入れして日本批判にあけくれているのが現状です。 ブログランキングに参加しています。応援クリック御願いします。
前にも触れましたが、私はミクシィーの会員にもなっています。私のブログ、ミクシィーにも載せています。私のブログ、「戦うことは貴いことである」に関してミクシィーの20−30代の若い人からのコメントがありましたのでここに転載してみました。 Sean 2009年04月19日 13:14 いつもながらですが、今回の日記は特に胸に”グッ”と来るものがありました。 >「人生とは戦い」 突き詰めれば人が生きていること自体が戦いと私は思います。 医学的なことはほとんど無知ですが、人の体の中には白血球があり、 その白血球は外からの色んなバイ菌と戦ってくれるおかげで、健康な体があります。 私達の体の中でも常に”戦って”いるのですね。ところが戦後左翼連中は”戦い”を 辞めろという、、、これではすぐに”ばい菌”に犯されて死に体になってしまいます。 そういう意味では、今の日本はアンケートの結果を見る限りでは、 現時点では死に体になっているのかもしれません。 非常に危ない現実です。これでは祖父母に顔向けが出来ません。 らりこ 2009年04月19日 13:44 えんだんじさんの本読んでますよ。 すごく気持ちがこもっているし、とても読みやすいです。 この日記も読んでいて、納得することばかりでした。 私も当てはまることがあったので、色々と考えさせられました。 日露戦争の本や映画を見て、これが日本人だったんだ!!と物凄く感動しました。 今の日本には微塵も感じられませんが… 北朝鮮みたいなクソみたいな国に怯えるなんて、ご先祖様があきれてますよね!!! 悪いやつはやっつけないといけません!! 金正日くたばれーーーー もりけん 2009年04月19日 18:02 やばいです。この日記シビれました・・・ 鳥肌が立つ名文でした! 昭和50年代後半、私の小、中学校時代は、えんだんじさんの仰るような感じのしごきを実際に受けましたよw誰か判別がつかなくなるまで殴られて、親のもとに連れて行かれ「すみません、お母さん。殴りすぎて顔がひどいことになりました。」 と・・・ 母は、「いやこちらこそお手数かけます。ありがとうございました。」 で、終わりでしたよw そしてさらに追い撃ちで母に殴られてましたw痛かったなあ・・ このブログ、転載して広めても良いですか?少しでも多くの人に読んでもらいたいのです。 お願いします! MIE 2009年04月19日 19:09 私は今、自分病気と必死に戦っています。諦めたらそこでおしまい。現代病と言われるうつ病ですが、絶対に治してみせます。 私の中、高校は田舎だったためか、普通に悪いことをしたら殴られていましたし、部活でミスして先生に殴られて鼓膜が破れた友達もいます。でも、それが当たり前で、今、地元の皆で集まると、あのときこうだったよね、とかああだったよね、とか、よき思い出話になっています。殴られて痣を作っても、今の子供や親のように先生に訴え出るなんて持っての他でした。悪いことをしたから殴られたんでしょ、そのくらいで親も干渉はしませんでした。先生にきちんとした敬意があの頃はまだ私たちにはありました。 私の友人は地元で先生をしていますが、飴と鞭は使い分けないとなめられてしまう、という感じでもなくやっぱり先生は先生、といった感じだそうです。まだまだ田舎はそういった風習があって、国旗掲揚、君が代斉唱なんて当たり前だよー、と話していました。 東北人は強いですよ。 KUNI-KUN 2009年04月19日 23:10 全く納得です。 私の子供時代は体罰まだまだありました。 万引きした友人は、一日中、学年の先生全員にビンタされてました、 おかげで彼は全うな人間になれたようです。 最近よく聞く、競争しない風潮って私もおかしいと思います。 どんなに小学校の運動会で平等にってやっても、実際の社会に出てみれば、厳しい競争だらけです。 ズル休みの呼称の件、大賛成です! もっと鍛えて、強くいきいて行かねばならんですね!! ザ・ワールド 2009年04月20日 01:24 正直な意見を言います。 日本が戦争に突入し、国のために命をかけるかと言ったら俺の答えは「ノー」です。 バカな政治家の利権によってもたらされた戦争なんかに自分の命はかけられません。 この手で人間の命を奪うなど俺の中ではもっとも避けたい事の一つです。 日本が亡国の危機に立たされるような事があれば変わるかもしれませんが。 他はとても賛成できます。 真っ白なキャンパスを持った子供達が自然と日本に誇りを持てるような教育がきたら素晴らしいですね♪ えんだんじの返事 2009年04月20日 07:36 皆さんコメントありがとうございます。皆さんのコメント、ブログにも転載させていただきますのでよろしくご了承ください。 えんだんじの返事 2009年04月20日 07:50 >Seanさん <現時点では死に体になっているかもしれません。 <非常に危ない現実です。これでは祖父母に顔向け出来ません。 まさにすでに死に体になっているかもしれませんね。でも私は最後の息をはくまで日本を見捨てずがんばるつもりです。 せっかく長生きされてきた元軍人たちは、現状の日本に無念の思いで死んでいっています。なんとしても昔の栄光の日本をとりもどさねばなりません。 >らりこさん らりこさんのように非常に若い女性が私の本を読んでいただいていることは私にとって非常にうれしいことです。若い人に私の本を読んでほしい思いがあるからです。 読後感が良ければ、お友達にも宣伝してください。また私のブログも読むよう進めてください。 過去の栄光ある日本を取り戻すべくお互いがんばりましょう。 >もりけんさん 昭和50年代にそういう先生がいたのですねぇ。もりけんさんのおかぁさんもえらいです。今の若い母親とはえらい違いです。 どうぞ私のブログ自由に利用してください。 ショウ 2009年04月20日 08:30 テレビで、ビート・たけしも言っていたのですが「妙な平等主義がいじめを助長している」というのです。私も同感です。 私の体験でもあるのですが、小学校時代には体格のでかいやつがガキ大将になってクラスの半分くらいを牛耳っていました。 「強いものが優勢になる」という冷徹な事実を教えられ、これはどこの世界にも当てはまるなと考させられました。 学校の先生としては、このガキ大将だけをコントロールすればよいはずだったのですが、今の先生は「みんな平等」という建前ですからクラス全員をコントロールしなければなりません。当然こんなことできるはずはないと思うのですが、、、。 学校の先生が「平等、平等」と言っているのには偽善性をつくづく感じます。世の中はそのようには決してなっていないし、「平等」と教えられた人は、不平等な世の中に出て行って不幸になるだけだと思います。 えんだんじの返事 2009年04月20日 08:30 >MIEさん MIEさんのような若い女性の中、高校生時代の話をきくとびっくりしますね。やはり地域差があるのですね。そう言えば、秋田県は、全国学力テストでは全国一位でしたよね。 日教組の力が強い県は、学力テストの結果が低いと言われています。日教組の力が強いか弱いかは、学力テストに現れるばかりでなく、しつけでも違いがでるのではないでしょうか。 >KUNI-KUNさん KUNI-KUNさんの時代になると学校教育がまだましだったのかもしれませんね。日教組の力も地域差があるし、また学校の差もあるし、教育については全国的に一律に言えないことがわかりました。 KUNI-KUNさんの日記からみても子煩悩であることがよくわかります。やさしい父親だけではダメですぞ。 >ザ・ワールドさん <日本が亡国の危機にたたされるような事があれば変わるかもしれませんが 勿論私が主張しているのは、日本が亡国に危機にさらされている時のことです。 ザ・ワールドさんに一つ質問があります。 日本みたいな貧乏小国が、およそ勝てそうもない大国ロシアやアメリカになぜ乾坤一擲の勝負をかけたのでしょうか。 MIE 2009年04月20日 09:01 いやいや、それが当たり前だったので…、家庭教師時代、こちらの親の子供への接し方にびっくりしましたね。甘やかしすぎ、自己責任を持たせない。 親が先生に抗議するなんて持っての他でしたし、恥ずかしいことでした。 秋田県は塾に通ったりするのは大体高校受験の前くらいからなんです。ですから、学校の勉強は充実していますし、朝ご飯は必ず食べる習慣があるので、それも学力テストで全国一になった要因かも知れません。田舎の子供たちはのびのびしているので、都会の子供を見ると何だか可哀想になってきますね。 メリハリをつけることも大事だと思います。 日教組の影響は、秋田はあまり受けていない気がします。田舎ですから、古き善き習慣が残っているのかも知れません。旗日には家の前に国旗掲揚する家もありますし…。 株式会社『無計画』 2009年04月20日 15:55 お久ぶりです。読んでみました。 >「人生とは戦い」 まったくです。漫画にもおなじセリフがありました。 「生きることは、戦うことでしょう?」 えんだんじ の返事2009年04月20日 16:00 >ショウさん 平等の行き過ぎですね。現在は、徹底した男女平等が学校ではびこっていますね。男女別トイレを廃止して、男女同じトイレ、体育の時間などに使う更衣室も男女別廃止、修学旅行の宿での寝室も男女別廃止、等など、男女平等もどこまでいくのでしょうか。 学校で使う性教育の本。裸の男女がからみあう絵は、すべて男が下で女が上に描かれているそうです。 >株式会社『無計画』さん 本当にひさしぶりですね。読んでいただいてありがとうございます。 内容を納得していただきうれしいです。 ザ・ワールド 2009年04月20日 19:40 日露戦争・大東亜戦争に関しては正に亡国の危機でしたね。 僕の浅い知識でも、この二つの戦争は勝てる要素がないと判断します。 当時の軍の中枢もそう判断していたんじゃないでしょうか。 それでも米との戦争に踏み切ってしまった事の要因に世論があるかなと。 日本人は和を重んじ極論を嫌いますが、一度左から右へ振り子がゆれだすとどこまでいくかわからない恐ろしい極端性を持っていると思います。 当時の世論を止められる人などあの国にはいなかったんじゃないでしょうか。 当時の日本人が心底祖国を憂い命を賭していったのか、マスコミによる扇動により思考が停止した火の玉になったのか、判断しかねます。 戦中の鬼畜欧米が戦後は鬼畜日本軍になったりとマスコミの無責任のせいでどれだけの人が不幸になったか。 今もその体質は全く変わってないと思います。 戦争なんてもんはホントに最後の最後の手段であり、その悲惨さを人類は学ばなくてはいけないと思います。 今の日本があるのもこの時に命をかけた日本人がいるからというのも理解しています。 誇りに思っていますし、感謝もしています。 僕はこの国が好きですし、生まれた事を幸せに思います。 しかし、命をかけるか?と聞かれた時においそれと「YES」は出せません。 甘い考えかもしれませんが自分なりの戦い方を最後の最後まで考えます。 話がそれてしまいすいません! けど、この国を好きな気持ちは負けません! えんだんじ の返事2009年04月20日 20:18 >MIEさん 私の孫娘、秋田県に住ませたいですね。現在神戸で小学五年になったばかりです。彼女4年間学校で君が代歌ったことないんです。5年になったら歌うことあるのでしょうか。 信じられますか、こんな話。 >ザ・ワールドさん ザ・ワールドさんから具体的に戦争史観を聞くのは初めてです。こう言っては大変失礼になってしまいますが、若い人にしては戦争を理解していると思います。しかし対米戦についてはアメリカ側の対日戦意識を知ることも大事だと思います。 いずれにしても、ザ・ワールドさんは、不甲斐ない日本男児になる恐れは全くありませんね。そのことを確信させていただきました。 率直なご意見ありがとうございました。 MIE 2009年04月20日 20:32 > えんだんじさん えっ!とカルチャーショックを受けました。私が中学の時の音楽のテストは、君が代の意味を解説しなさい、という問題も出ましたよ。もちろん、先生が事前に意味を教えてくれるのですが…。 との弟 2009年04月20日 22:42 自分への甘え、弱さがが身にしみました………日本、故郷はどこよりも好きです………しかし……有事の際、私は15%の中に入れるのだろうか………… えんだんじの返事 2009年04月21日 07:55 >との弟さん 現在20歳前半の日本人の平均的な姿ではないでしょうか。学校生活そのものが温室のようになっていますからね。 <日本、故郷はどこよりも好きです ならば自分の国は自分で守るのが男たるものの務めではないでしょうか。男たる者、いざとなれば祖国や、家族を守るために命を投げ出す気概が必要ではないでしょうか。 その気概が実社会でも大いに役立つのではないでしょうか。 ブログランキングに参加しています。応援クリック御願いします。
私は、できることなら20代30代の若者全員にこの記事を読んでもらいたいと思っています。大東亜戦争中、私たち日本人は、広島、長崎の原爆投下、沖縄戦、そして東京、横浜、川崎、大阪、神戸など大都市を含む66都市が無差別空爆を受けなど、残酷で悲惨な体験をした。それでも戦争に勝っていれば事情が違ったでしょうが、徹底的な敗北だったため、事ある度に戦争の悲惨さが強調された。 大東亜戦争に関することのすべてにおいて、戦争の悲惨さが強調され、戦争することは悪いこと、そして自虐史観が子供たちに教え込まれてきています。そのため戦争だけでなく戦うこと自体があまりよくない印象を子供たちに与えてきたような気がしてなりません。 さらに学校教育では、子供からよけいな競争心をなくそうとすることに力をそそいでいるのです。現在の運動会が典型的な例です。私たちの運動会の時には、1等、2等、3等には賞品が与えられ、その賞品の内容には等級別の差がついていた。賞品をもらえなかった生徒には、全員に参加賞だけがあたえられた。 現在は競争心を煽るからというので等級別の賞品一切なし、全員参加賞か全員参加賞なしのどちらかです。徒競走を例にとりましょう。私たちの時は、男女別に、無差別に7、8人一緒に走らせます。そのためどうかすると一番早い生徒と一番遅い生徒が一緒に走り、1位とビリの差がとんでもない差がつくことがありました。現在では、早い者は早い者どうしで、中くらいの者は中くらいの者どうしで、遅い者は遅い者どうしで走り、極端に差がつかないように走らせるのです。例え負けても極端に差がついてあまり落胆しないようにとりはからっているのです。極端な例になると皆で手をつないで一緒にゴールインです。 幼稚園や保育園の運動会には、必ず綱引きをやります。男女一緒同人数で引かせるのはいいのですが必ず二回戦で終わります。1回目は、正真正銘な公正な戦いです。2回目は、かならず先生方が後ろのほうで綱を引いて1回戦で負けた方に応援して勝たせます。3回目はなし。 このように子供の時から勝った喜び、負けたくやしさをあまり感じさないように、むやみやたらと競争心をおこさせないのを基本方針としているのです。これは人間の本能に背く教育です。運動会の騎馬戦なども全く迫力がなくなってしまった。私の息子が中学生の時、いまから24、5年前です。彼らの騎馬戦を見てがっかりしました。騎手がかぶっている帽子取りでした。私が中学生の時の騎馬戦は、騎手を地面に引きずり下ろしての勝ちです。騎馬戦よりもっと勇壮な棒倒しは息子の運動会ではなくなっていました。 息子の騎馬戦では、騎馬戦中にケガした生徒が出たとかで、翌年から騎馬戦が中止になってしまいました。運動会から棒倒しが消えたのもケガを恐れてのことでしょう。終戦直後の子供たちは、充分満足に食べられない環境で育った、デブな子供など一人もいなかった。それでも騎馬戦や棒倒しをやってもけが人はでないのだ。 最近私は学校教育で気になっていることがあります。「心のケア」です。「心のケア」が当たり前になっていることです。私に言わせれば、冗談もほどほどにしてくれと言いたい。終戦直後には、都会では沢山の浮浪児(いまではパソコンでも変換できない漢字になっています)、現代語で言えば、子供のホームレス、すなわち戦災孤児です。父親を戦場で亡くし、空爆で家を焼失し、母を亡くし、親戚に引き取られなかった子供たちのことです。 終戦直後私は、横浜の桜木町の橋のたもとに私の年代とおなじような浮浪児(子供のホームレス)沢山たむろしていたのを見ました。彼らはいずれ国の施設に収容されてその中で育っていきました。彼らに心のケアが与えられたのでしょうか。私の息子の友達の両親は、二人とも浮浪児でした。親戚がいるのかいないのかわからず、広い世間たった二人で社会の底辺の仕事をしながらまじめに働いて、やっと晩年になって小さなラーメン屋を持つことができました。ところが父親は、ガン発見が遅すぎ60代に亡くなってしまいました。現在70歳以上の人たちの中には、自分では言わないが、浮浪児だった戦災孤児がいるのです。 この人たちは、小学校の心のケアなどどう思っているのでしょうか。私は、小学校で心のケアなど絶対必要ないなどとは言いません。しかし地震の被害のように大勢の子供たちが同じような体験しているのに、なぜそこに心のケアなどが必要なのでしょうか。 現在学校では子供たちに体罰は与えることができないどころか、非常に厳しく叱責することもできません。それどころか先生が生徒を殴ると先生が罰せられるしまつです。 私が中学校に入学した時、戦後七年たっていました。場所は横須賀市。米海軍基地。米兵めがけてパンパン(従軍慰安婦)が全国から集まったような場所だから町中パンパンだらけで、最低の教育環境だった。小学生の時には学校である日突然男だけタバコの所持検査があったくらいです。中学校は貧乏人ばかり、全校で2000名以上のマンモス中学校。当時は貧乏が悪の温室と言われた時代です。悪ガキの生徒が非常に多かった。それでも中学校の規律が守られていたのは、戦前教育の遺産がまだ残っていたからです。 その遺産とはなにか、先生の権威や威厳です。生徒、その両親にとって先生の権威や威厳は絶大でした。校舎の隅の方で見張りをつけてタバコを吸い、見張りが「せんこう(先生のこと)来た」というと、とたんに皆ばらばらに逃げ出していました。私と因縁深い男でいまでも名前を覚えていますが、仲間が「清水がせんこうに捕まってしごかれている」と知らせてきた。仲間たちと清水がしごかれている部屋の中を覗きこもうとしたけど、ドアや窓は完全にしまっているからのぞきこめません。それでも中からしごかれているいような音がきこえてきました。そのうちに清水がドアから放り出された。一瞬私と彼の目が会った。かれは鼻からものすごい血をだし顔は赤くなっていた。こてんぱんに殴られたのだろう。彼は駆け出して消えていった。生徒のしごき役は、若い体育の先生と決まっていました。先生の力ずくのしごきに父母が文句などつけませんでした。そのくらい当時の先生には権威と威厳があったのです。だからこそ戦後の混乱した中学校、全校生徒二千人以上いる中学校を統制することができたのいです。中学生も悪いことをした、しかし皆先生が恐かったのです。 しかし日教組は、子供に媚びて自ら権威や威厳を放棄し、先生と子供とは友達関係なってしまった。昔の先生のように権威と威厳があったら、いじめや不登校など半減することはまちがいないでしょう。不登校という名前ほど腹立つものはありません。昔は不登校を「ずる休み」と言っていたのです。不登校はまさに「ずる休み」なのです。「ずる休み」する連中を甘やかすから不登校になるのです。昔に戻って「ずる休み」に言い換えることを提案します。 現状の学校教育の不満をついながたらしく書きましたが、要するに戦後は戦争の悲惨さばかり強調し、戦争することは悪いことにし、自虐史観で日本をとんでもない悪い国にして誇りを持てなくし、運動会などでは競争心をなくすことに夢中になって闘争心の薄い子供に育てあげ、そのうえ子供たちを保護することばかり考え、精神的に鍛えることや、いざとなれば戦うことの尊さなど一切教えこまなかった。 その結果として現れた数字があります。世界36ヶ国で「もし戦争が起こったら国のために戦うか?」の調査をしたら、「はい」と答えて日本人は15.6パーセントで36ヶ国中最低。韓国74.4パーセント、中国人89.9パーセント、アメリカ人63.3パーセント。まさに最悪の数字です。たかがアンケート調査、目くじらを立てることでもないという人もいるかもしれませんが、私は違います。あまりにも低すぎる数字です。その原因のほとんどが教育のせいだと私は思うからです。 私は学校の先生がたに御聞きしたい。戦争はすべて悪いことですか。現在の大国アメリカは、イギリスの植民地からイギリスとの独立戦争を経て独立国家になりました。アメリカの教科書では、ジョージ・ワシントンは英雄だが、イギリスの教科書では悪人です。同じ人物でも国によって評価が違います。これが歴史です。 アメリカ以外にも幾多の有色人種国が宗主国との独立戦争をして独立国家になっています。この独立戦争は悪い戦争なのですか。1990年に湾岸戦争がありました。この時国連は、国連加盟国にクェートに軍隊の派遣を求めました。そのため多国籍軍が編成されました。これは国連が承認した戦争です。この戦争も悪い戦争ですか。 日露戦争を戦争することは悪いことだとして戦わなかったら、世界は支配する白人の世界と支配される有色人種の国に分かれてしまっていたでしょう。戦っても負けていたら同じような状態になっていたでしょう。白人に支配されたら、人種差別は止めましょうと言えば、人種差別撤廃ができたのですか。白人の植民地になっている国々が、白人国家との話し合いで独立国にしてくださいと要求すれば、独立国が誕生したのですか。 日露戦争勃発前は、世界中のほとんどの有色人種の国は、白人に支配されていました。支配する白人と支配される有色人種という関係を、現在のように対等で平等な関係にするには、どこかの有色人種の国が大々的に武力で白人国家に挑戦しなかったら実現しなかったのではないでしょうか。日本の日露戦争と大東亜戦争がたまたまその役割を果たし戦争になったのではないですか。 私は戦争礼賛者ではありません。戦争がなければこれにこしとことはありません。しかし人類の歴史を考えれば、人間は戦争ともに歩んでいるも同然です。だからこそ「治にいて乱を忘れず」という言葉があるのです。どんな時でも戦争があるものとして準備を怠ってはいけないのです。そして自分の国が戦争に巻き込まれたら、侵略されよとしたら、国民は銃をとって戦う、これが常識なのです。 それが「もし戦争が起こったら国のために戦うか?」「ハイ」と答えた日本人、たった15.6%。36ヶ国中最低。この原因は教育のせいだと前にもふれましたが、なかでも精神的に鍛えること、戦うことの貴さをほとんど教えてこなかった影響は非常に大きいと思います。だから今の若い人は、難しい問題に直面すると、逃げようとしたり、避けようとするばかりで立ち向かう姿勢がないのだ。そのためすぐ自殺するのです。 最近、NHKの夜の7時のニュース番組で実に腹立たしいニュースがありました。今度厚生省は、パワーハラスメントを労災の対象にしようかと検討に入ったというのです。パワーハラスメントということは、上司の言葉の暴力です。32歳の男性サラリーマンが、上司のパワーハラスメントが理由で自殺したというのです。上司がなにを言ったかといえば、月給泥棒と言ったり、会社での存在感がないなどとしょっちゅう言われたので、それを苦にして自殺したというのです。ある女性はパワーハラスメントで体調をすっかりこわして病院通いするようになってしまったというのです。 冗談じゃないですよ。上司に月給泥棒と言われて自殺するような弱い人間に労災など適用うれば、日本の若者はますます弱くなってしまいます。こんな男に「戦争になったら国のために戦うか?」と聞いたところで「ハイ」の返事は返ってくることはありません。私が主張する「戦うことは貴いことである」という戦いはなにも戦争の時だけではありません。 人生そのものが戦いなのです。自分の人生を幸せにするためには、色々な困難にたちむかって戦い取るものなのです。幸せは他人が与えてくれるものではありません。自分が戦いとるものなのです。過労死などというのは自殺と同じように実にひ弱な人間の行為です。 もうこれでは自分の体が持ちそうもないと思ったら、会社を辞める覚悟で上司や社長に直訴したらどうですか。サラリーマンが辞める決心したら。その時点で上司や社長と対等なのです。その直訴もしたくないというなら、なにも言わず辞表を出して辞めればいいじゃないですか。ある時、ある人から相談受けた時、こういうような事を言いました。そしたらその人は「会社はそう簡単に辞めさせてくれません」。私は「あなたは、アホか」と言いたかった。 会社の業績が悪くて首になったとき、「御願いですから私を首にしないでください」といったら聞きとどけてくれるのですか。過労死を心配しながら、それでいて辞める勇気さえないのだ。 息子を過労死で亡くした両親が、会社を訴えるのもいい、しかし私はその両親に言いたい、「そんなひ弱な息子を育てた両親が悪い」 私には、子供三人います。長男に姉二人です。いじめに負けないように厳しく育てました。だからいじめに会うことなど全く心配しませんでした。あるいはいじめにあっていたかもしれません、しかし私にそのことを言ったらどういう騒動になるかわかるので黙っていたかもしれません。私はそれでいいと思っています。最近は父親と子供の仲がいい、私にいわせれば仲良しすぎます。やさしい父親だけだったら、父親としての価値はありません。 親は子供の経験してますから子供の気持ちをかなりの程度理解できます。しかし子供は親になったことがないので親の気持など理解できません。それを子供に媚びてまで親の気持ちを理解させようとするのはナンセンスです。私は「親の気持ちなどわかってたまるか」とほっておきました。 話が脱線してしまいましたが、要は「人生とは戦い」なのです。しかし戦いといってもその戦いの六割あるいは七割は、「耐える」ことなのです。「耐える」ということは非常に大事なことです。しかし耐えてばかりいると過労死みたいになってしまいます。そこで行動が必要です。しかし「人生は戦い」の基本は忍耐です。忍耐をベースにして戦いが始まるのです。 最後に結論を申しましょう。 日露戦争当時も大東亜戦争当時も村役場には、「娘身売りの相談に応じます」という看板がめずらしくないくらい日本は貧乏小国でした。その貧乏諸国がロシア、アメリカという大国に戦争を挑んだのです。理由なしにこんな貧乏小国が勝てそうもない二大国に戦争しかけるはずがありません。わが先人たちは、「例え負けても一戦は辞せず」の覚悟で全国民一致して誇りと命をかけて戦いに挑んだのです。 この二つの大戦のお陰で、白人にほとんど支配されていた世界が、現在の各国対等、人種平等の世界になったのです。先人たちの勇気、誇りにはすばらしいものがあります。この勇気ある先人たちは、遠いい昔の人たちではありません。あなたがたの祖父母や曽祖父母なのです。あなた方は彼らの孫やひ孫ですよ。 現在の日本を見て下さい、外交ではアメリカに頼らないとなにもできない。日本列島の上空は、北朝鮮のミサイルの実験場と化し、戦争になれば戦うかと問われれば、ハイと答えるのは、わずか16パーセント。あまりにも情けない状況と思いませんか。あなたがたに御願いしたい。普段は生活に追われ、国のことにあまり関心もてないかもしれません。 しかし日本という国のことは忘れないでほしい、そしてあなたがたの先人たち、祖父母や曽祖父母は祖国のために命をかけて戦ってくれたことを忘れないでほしい。だからあなた方もいざ日本が危機に面した時には、立ち上がって国のため、自分の家族を守るため堂堂と戦いにいどんでほしいのです。そういう気概は常に持っていてほしいのです。お願いします。 ブログランキングに参加しています。応援クリック御願いします。
皆さんに一つ質問があります。大東亜戦争の原因の一つにもなったものが、戦後国連で撤廃されたもの、それは何でしょうか?それは人種差別撤廃です。敗戦から20年後の1965年に国連で「あらゆる形態の人種差別の撤廃」に関する国際条約が結ばれました。こうして人種平等は、世界中の人々の常識になりました。 戦前までは、白人国家の政府高官たちでさえ公式に有色人種に対する差別的発言をしていました。それが現在では様変わりして、どんな人でも公式の席では人種差別的な発言は許されなくなっています。この人種差別撤廃に大変な貢献をしたのが日本なのです。「あらゆる形態の人種差別撤廃」条約が結ばれるまでの過程を簡単に説明しましょう。 1492年は、コロンブスのいわゆるアメリカ大陸発見の年です。その後の450年間は、白人国家による有色人種国家の侵略です。その間白人にとって有色人種は、差別と搾取と憎悪の対象でした。この450年間の最後に近い1904年の日露戦争と1940年の大東亜戦争は、異色な戦争です。なんで異色かと言えば、この二つの戦争は、有色人種国家、日本による白人大国への武力挑戦だからです。それまでにも有色人種国家の白人国家への武力抵抗はありましたが、いずれも白人国家に鎮圧され、有色人種国家や世界になんら影響を与えることはありませんでした。 日露戦争が起きたその頃、世界の有色人種国家のほとんどが、白人に侵略され、彼らの植民地になっていました。有色人種国家で独立を保っていたのは、日本、タイ、エチオピアなど五本の指に満たないものでした。満州に武力進出してきたロシアに、日本は大変な脅威を感じた。満州が支配されると朝鮮が必ず支配されると、日本は乾坤一擲の勝負に出た。世界中の国々が、日本みたいな小国が、ロシアのような大国に勝てるわけがないと考えていた。 アメリカも当然日本が負けるだろうと予想していましたから日本に同情していました。ところが日本が勝ってしまったのです。当時日本はイギリスと日英同盟を結んでいました。当時の情報の発信地は、ロンドンです。ロンドンから日露戦争の詳細が世界中に伝えられた。日本軍の強さが伝えられ、日本海海戦にいたっては日本海軍の完璧な勝利が伝わると世界中に大変な反響を巻きおこしました。 欧米の白人国家は、自分たち一国だけでも当時の大国、ロシアと戦争してもひょっとしたら勝つのがむずかしいかなぐらいに思っていたのに、小国、しかも有色人種の国、日本が勝った。そのことが日本への脅威が強まり黄禍論の勢いが強まりました。アメリカでは日本を仮想敵国にしたてあげ、日本人移民に対する差別政策が強化され、人種的憎悪の目がさらに強くなっていった。 一方白人国家の植民地になっていた有色人種国家にとって日本は、希望の星になり彼らに刺激を与えることになりました。各国で独立運動が芽生え、また強化されていった。中国からは日本への留学生が一気に増加した。インドの独立の父と言われた、ネール首相は、「ネール自伝」の中でこう書いています。 「もう一つの重要な出来事で私に影響をおよぼしたものとして忘れることが出来ないのは日露戦争である。日本の戦勝は私の熱狂を沸き立たせ、新しいニュースを見るため毎日新聞を待ち焦がれた。相当の金をかけて日本に関する書籍を買い込んで読もうとつとめた。ところが日本の歴史では面食らった感じだが、昔の日本武士道の物語、それから小泉八雲の楽しい散文は大好きだった。私の頭はナショナリスチックの意識で一杯になった。インドをヨーロッパの隷属から、アジアをヨーロッパの隷属から救い出すことに思いを馳せた。 さらに想いはほとばしり、私が剣をとってインドのために闘い、インド解放の一助けたらんと英雄的行為を夢みるのだった」 数百年にわたって白人に支配されてきた有色人種にとって、白人には絶対に勝てないという「神話」ができあがっていました。その「神話」を有色人種である日本が打ち砕いたのです。世界中の有色人種にとって、またフィンランドやポーランドのようにロシアにいじめられていた白人国家にとっても、日本勝利は快挙だったのです。 日露戦争後10年たらずで第一次世界大戦が起きました。この戦争は、ヨーロッパ内部の白人どうしの戦争でした。日英同盟のよしみもあってイギリスは、日本の参戦を望みました。日本は参戦を決意、ドイツと戦いました。ドイツの敗戦によって戦争は終結した。日本は、イギリス、フランス、アメリカなどと戦勝国の一員でした。この第一次大戦は、ヨーロッパが戦場でしたから、アメリカと日本は本国への影響はなく、却って日本は漁夫の利を得、国力が発展。大戦後日本は、大国としての地位がさらに強固になりました。 大戦終了後、色々な問題を討議するために1919年パリ講和会議が開かれました。日本はこの会議に出席する前から、「人種差別撤廃条約」の締結を議題にのせることを公約にしていました。何故なら現実に日本人がアメリカで人種差別と憎悪の対象になっていたからです。全米黒人地位向上協会の創立に貢献したデュボイスら黒人代表者は、日本全権団がパリに到着すると、早速日本全権団を訪ね、世界中のあらゆる人種差別と偏見をなくすことに尽力してほしいという嘆願書を提出しています。 アメリカの黒人代表者たちは、アメリカ代表団を尋ねようとせず、日本代表団を訪れて人種平等の嘆願書を出したということは、彼らはすでにアメリカ政府に絶望していることを意味しています。パリ講和会議には、黒人代表者など出席できません。当時アジア、アフリカ、中南米の有色人種国家の中で日本だけが「人種差別撤廃案」を提出できる力を持っていたのです。 「人種差別撤廃案」が会議上に提案され、討議が始まりました。さっそく全米黒人新聞協会は、次のようなコメントを発表しています。 「われわれ黒人は、講和会議の席上で、人種問題について激しい議論を闘わせている日本に、最大の敬意を払うものである。全米1200万の黒人が息をのんで、会議の成り行きを見守っている」 「人種差別撤廃案」に強行に反対したのは、現在人権先進国づらしているアメリカ、イギリス、カナダ、オーストラリアなどでした。日本は反対国に受け入れられるように字句の修正などしましたが全然受け入れられません。日本は票決に持ちこもうとしました。しかしこの時の会議の議長は、アメリカのウィルソン大統領でした。彼は長い演説をして事態を沈静化させ票決なしですませようとしました。 しかし日本のしぶとい交渉が功を奏し票決が決定、投票の結果合計16票中11票が日本案に賛成、反対5票の多数決で日本案が採決されたのです。この時ウィルソン大統領は、このような重要な問題は全員の賛成が必要だと、この票決を無効にしてしまった。それまでの会議は、すべて多数決で決定されていたにもかかわらず。ところでオバマ大統領初め現在のアメリカ黒人は、このようなことを学校教育で教えられ知っているのでしょうか。 ウィルソン議長の特権で、「人種差別撤廃案」を無効にしたが、採決の結果負けたことは、アメリカにとって大変なショックだったでしょう。アメリカは移民でできた大国です。インディアンから土地を奪い、彼らを僻地に押し込め、黒人を奴隷にして発展してきた国です。当時アメリカは、日本以外のアジアの国々からの移民を禁止してしまいました。ここで人種差別撤廃が実現すると、インディアン、黒人と平等になり、アジアから大挙して移民が押し寄せてくると、アメリカという国の文化、すなわち白人文化が破壊されることになりかねなません。 当時の上院議員、J.D.フィランは「アジア人に平等権を適用すれば、われわれ自身の国民的生存を危機に陥れ、西欧文明を破壊することになる」と表明しています。ここでアメリカは、「人種差別撤廃案」など提案した日本などつぶしてしまわなければ、アメリカという国の存在の危機になる。その上日本はアメリカがほしがる中国市場にとって邪魔な存在。こうして日本は、アメリカにとっていずれつぶしてしまわなければならい国になったのです。 このように考えるとこれ以後の日本に対するアメリカの外交政策がよく理解できます。パリ講和会議二年後の1921年に日、米、英、仏、中など九カ国が集まってワシントン会議が開かれた。私がいつも主張する、「うぶでバカでお人好し」の日本外交は、完全にアメリカに丸めこまれ、中国における日本の権益の大幅な譲歩など、アメリカの外交の大勝利に終わっています。 そしてあの悪名高い「排日移民法」が1924年に制定されたのです。それまでにアメリカは、日本を除くアジアの国々からの移民を禁止していました。しかし日本は大国なので他のアジアの国々と同列に扱うことができず、日本からの移民が許可されていました。しかしアメリカにいる日本人は、白人の差別や憎悪の対象でした。とくに日本移民の農地に関して様々な制限を設けた法律が次々と可決されていきました。そしてとうとう1924年に、正式に日本人は「帰化不能民族」のレッテルを貼られ、アメリカへの移民が禁止されたのです。 当時の日本人は、現在の日本人と違って非常に誇りが高かった。日本人であることに特別の誇りを持っていた。だから日本国内では反米感情が一気にふくれあがったのです。昭和天皇は、この排日移民法を大東亜戦争の原因の一つに上げています。私も同感です。1941年に大東亜戦争が勃発しましたが、その前に日本を含む全アジアの人々は、アメリカ、カナダ、オ−ストラリア、ニュージーランドへの移民は禁止されていたのです。ここで私たちが忘れてならないのは、私たちが戦争に突入した時のアメリカは、人種差別政策を国策にしていたことです。 大東亜戦争勃発後の六ヶ月間の日本軍の快進撃がすごかった。大東亜戦争は、日本の敗北に終わったが、開始の六ヶ月間の快進撃とその後の半年あまりの東南アジア支配が、戦争を意義あるものにしたのです。六ヶ月間のうちに日本軍は、全東南アジア地域から白人を全部追っ払ってしまったのです。 アジアの人たちは、日露戦争で日本が勝ったのを知っています。日本に勇気付けられたことも確かです。しかし日露戦争の戦場は満州であり、日本海海上です。日本の戦いぶりは新聞で読んだだけです。しかし大東亜戦争の場合は違います。アジアの人たちは、自分の目で日本軍兵士の戦いぶりを見たのです。 自分たちを二、三百年以上支配してきた白人、自分たちには絶対に勝てないと思いこんでいた白人を、自分たちと同じ背格好の日本人が、徹底的に白人兵をやっつけているのです。彼らを見下していた白人兵が、捕虜になって日本軍の命令に従順に従っているのです。「一見は百聞にしかず」といいますが、日本人が出来て、自分たちにできないはずがないと考えるのは当然の結果です。 このため戦後アジアから独立国が続々と誕生した。例えばフィリピンの場合を見てみましょう。戦争中日本軍は、フィリピンを支配していたアメリカ軍全軍を追っ払い、フィリピンを独立国にしました。その後アメリカ軍は、反撃し逆に日本軍全軍をフィリピンから追い出した。日本がフィリピンを独立させた以上、アメリカがまた植民地にするわけにきません。そこでアメリカは、日本がフィリピンを独立させたのではなく、アメリカがフィリピンを独立させたことにしたのです。 東南アジアの国々の独立、その波及がアフリカ、中近東へと広がりを見せました。独立国の数字の動きを見てみましょう。1945年、終戦の年に国連が誕生しました。その時加盟が承認されたのが51ヵ国でした。アジアから3ヵ国、アフリカからも3ヵ国、中近東は7ヵ国、残りは全部ソ連を含むヨーロッパ、南北アメリカと白人の英連邦諸国でした。これでは過去数世紀と同様に将来も白人の世界が続くと思った。 ところがその後の10年間に25の新国家が加盟、1965年までにさらに41ヵ国が加わり加盟国は117ヵ国になったのです。 それでは戦後直後のアメリカの人種差別政策はどうのなったのか。終戦後もアジアからの移民は禁止されたままです。終戦後アメリカの日本占領軍は、日本に民主主義政治を教えたことになっていますが、アメリカ本国では、黒人は相変わらず差別と憎悪の対象であった。投票権も事実上与えられず、投票権を持っていても行使することもできないのです。このことがアメリカは外交面で非常に不利になっていました。 なぜなら戦後長い間、ソ連が崩壊するまで、米ソ冷戦構造と言って世界が大国米ソ両陣営に分かれてお互いに勢力範囲を広げていました。ソ連は、アメリカ国内の黒人に対する人種差別を指摘して対外宣伝に徹底的に利用しました。アジア、アフリカから沢山の独立国が誕生した結果、多くの有色人種の外交官がニューヨークの国連に訪れます。そのときアメリカの人種差別の実態を体験します。ケネディー政権時代のラスク国務長官が「1960年代の外交関係で我々が背負っている唯一最大の重荷は人種差別問題だった」と白状しています。 1950年代にアメリカで黒人の公民権運動がはじまりました。教育、雇用、住居、選挙などあらゆる分野において白人と同等の権利の保障を要求する運動です。紆余曲折を得て1964年に公民権法が成立。ここに初めてアメリカの黒人は、法的にあらゆる差別から解放されたのです。終戦後20年近く経ってアメリカは完全な民主主義国家になったのです。こうして大国、アメリカが人種差別国家でなくなった翌年、1965年に国連総会で人種差別撤廃条約が採決されました。賛成89、反対0、棄権17で可決された。この同じ年に、アメリカは、アジアからの移民禁止を解除しました。 これまでの文章を要約しますと、コロンブスやマゼランが活躍した時代を世界史では、「大航海時代」と読んでいます。これはまさに白人側の呼び名であって、有色人種側から呼べばまさに「大侵略時代」と言えます。この「大航海時代」が17世紀半ば頃に終わるのですが、その時すでにほとんど有色人種の国は、白人国家の植民地なっていました。日露戦争の時には、ほとんどの有色人種国家が白人国家の植民地になって二、三百年経っていたのです。 歴史を振り返れば、この日露戦争で日本が負ければ、世界は支配する白人と支配される有色人種に差別された世界になるかの分岐点でした。日本が勝ったからこそ人種差別撤廃の可能性への道を開いたことになるのです。 第一次大戦後のパリ講和会議での日本の人種差別撤廃案の提出、討議、賛成多数を得た採決、議長の特権による採決無効。まさに人種差別撤廃に向けた貴重な第一歩でした。そして大東亜戦争の勃発。 半藤一利氏は、大東亜戦争の意義など認めませんが、とんでもない主張です。もし大東亜戦争で植民地体制を残したままあっさり敗れたら、意義のない戦争になってしまったでしょう。初戦の快進撃で植民地体制を破壊し一時的にせよ東南アジア全体を支配したということがどれだけ意義のある戦争だったか測り知れないものがあります。その意義の一つが続々と出現した有色人種国家の独立です。彼らは数百年にわたって白人に支配されていたのです。彼らの存在が人種差別撤廃にむけての大変な力になったか容易に想像つくでしょう。 人種差別撤廃条約が結ばれ、現在では人種平等ということは世界の常識になってさえいます。それまでの歴史を振り返るとき、日本の貢献の大きさを抜きに語ることはできません。欧米諸国は、「人種差別撤廃」などで日本など誉めたくありません、自分たちの過去の汚点を語らなくてはならなくなるからです。韓国や中国は、日本の価値など一切認めようとしません。我々日本人がこの点を世界に向かって堂々と語らなくてどうするのですか。また私たちの子供に誇りを持って語らなくてどうするのですか。 自虐史観をつめこまれている若い人たちに言いたい、このブログに納得したら、ぜひこの文章をコピーするなり、あるいは自分のブログに転載するなりして利用していただきたい。 日露戦争と大東亜戦争ほど、世界全体の人類に貢献した戦争はありません。 ブログランキングに参加しています。応援クリック御願いします。
鹿児島県の大隈半島の南に種子島という島があります。現在は種子島宇宙センターと言って日本の人工衛星打ち上げの基地になっていますので、種子島の名前はよく新聞、テレビに出てきます。その種子島に1543年、一艘のポルトガル船が漂着しました。その時種子島領主、種子島時尭(ときたか)の配下の武士がポルトガル船員と出会ったのです。この時が記録に現れる日本人とヨーロッパ人の最初の出会いと言われています。 出会ったのはいいのですが、双方全く言葉が通じません。ところが幸いにもポルトガル船に中国人が乗っていたのです。二人は砂浜に漢字を書いて筆談をはじめた。それで彼らがポルトガル人であることがわかりました。ポルトガル人を観察してびっくりしているものの一つに、彼らが箸を使わずに手で食事をしていることでした。ということはその頃日本の一般家庭では箸を使ってたべていた証拠です。ポルトガルの船員が手で食べていたというのは、船が島に漂着したせいではないかと思ったのですが、なんとヨーロッパの一般庶民は、19世紀に入っても、ほとんどの地域の民衆は日常、手づかみで食べていたのです。 木製のスプーンはありましたが、だいたいパンですくって食べ、骨や皮や食べかすは、どんどん床に投げ、そこに犬猫が待ち受けて平らげていた。各地の宮廷や大金持ちの食卓では18世紀中ごろからナイフとフォークを使うテーブルマナーを発達させた。ポルトガルの船員が手づかみで食べていたのは、特別の事情ではなくてあたりまえのことだったのです。 ポルトガル船の種子島漂着6年後の1549年に、最初のキリスト教宣教師が布教のため日本にやってきました。この16世紀後半から17世紀にはヨーロッパ諸国の宣教師達、貿易商、船員達が日本にやってくるようになりました。その頃の日本文化について、アメリカ人作家で日本文化に造詣の深いドナルド・キーン氏はこう書いています。 「ヨーロッパの人達は、日本を見て、日本の文化はだいたいヨーロッパの文化と同じ水準に達していると言っていました。もっと客観的に考えますと、当時の日本の文化の水準は、あらゆる点でヨーロッパよりはるかに上だったと私は思っています。日本人の生活が、まず清潔であることに、ヨーロッパ人は驚きました。ある宣教師が手紙の中で、日本の家の中が清潔でありすぎるから、どこでつばを吐いたらいいかわからないと書いています。ヨーロッパでは、きっと家のなかで平気でつばを吐いていたにちがいないと思います。また当時のヨーロッパの食堂では、床の上に葦などがしいてありました。食べながら残り物を捨てるのですが、葦があると見えにくくなるのです。あるいは、犬を呼んで食べさせました。当時のヨーロッパ人は日本の家のなかを見てどんなに驚いたでしょう。どんなに文明的だと思ったでしょう。」 私が力説したいのは、このドナルド・キーン氏のように日本の歴史や文化を熟知している欧米人がいることはいるのです。ところが一般の欧米人は日本の歴史にはほとんど無知といって言っても言い過ぎではありません。このため日本は、欧米人に接するまでは、文化的にも文明的にも、また科学技術の面でもなにひとつみるべきものがなく、未開の国同然であった。現在の日本の発展のもとはといえばすべて欧米人の指導によるものと考えている人が多いのです。これは歴史の無知による傲慢さです。 ドナルド・キーン氏が日本の文化水準はあらゆる点でヨーロッパよりはるかに上といったこの時期、日本は、その当時なかった言葉で、現代使われている言葉で言えば、強力な軍事大国でもあったのです。軍事大国になるきっかけは、ポルトガル船の種子島漂着です。この時ポルトガル人は、種子島領主に鉄砲の使い方を教え、島を離れる時二挺の鉄砲を置き土産として領主に与えていた。 鉄砲という名前の武器は1510年に中国から堺に渡来したと言われています。その時は銅銃でした。その後銅銃は堺で作られたと言われています。堺といえばポルトガル人宣教師、ガスパール・ビレラが「堺はベニスのように執政官によって治められている」といった自治都市のことです。銅銃よりポルトガル人がもたらした鉄砲の性能が圧倒的に良かったのでしょう、たちまちのうちに鉄砲は全国に広まった。このため鉄砲の伝来と言えば、ポルトガル人が置き土産に残していった鉄砲をさすようになったのです。 この鉄砲が種子島の伝えられた頃の日本は、戦国時代といって全国の大名が日本全国の統一をめざしての戦いにあけくれていた時代でした。そのため鉄砲がまたたくまに全国で使われるようになった主な原因になった。日本全国統一を目指す大名の中でもナンバーワン候補になったのが織田信長でした。この織田信長が戦場で鉄砲を使用する全く新しい戦法をあみだし、そして大成功したのが1575年の長篠の戦でした。 彼の戦法は三千丁の鉄砲隊を三列に並べたのです。当時の鉄砲は先込め銃といって、一発撃つたびに銃口に火薬や弾を込めなおさなければならないから連続使用は不可能だった。そこで千丁の鉄砲隊を三列にならべ、最初の一列が撃つとすぐひきさがって二列目が撃つ、二列目が引き下がると三列目が撃つ、三列目が撃つと最初の一列目が撃つといった具合に連続して鉄砲が使えるようにしたのです。 長篠の戦の時の敵は、当時日本最強を誇ると言われた武田の騎馬隊です。そこで信長は木で作った柵をもうけたのです。武田の騎馬隊が柵を乗り越えようと、もたもたしている時に、一千丁の銃がいっせいに火を吹き、それが連続して行われたのです。武田の騎馬隊は壊滅した。黒沢明監督の映画「影武者」を見た人は戦闘場面を思い出してください。あの戦闘場面が長篠の戦なのです。信長が採用したこの戦法で戦闘形態が変わった。鎧(よろい)と兜(かぶと)をつけ、長やりもつ重装備の騎馬隊の戦いから身軽に動ける歩兵隊の戦いに変わったのです。この意味では、長篠の戦は世界の戦史に残る戦ではないでしょうか。信長のこの戦法について、上智大学名誉教授、渡部昇一氏はこう語っています。 「これは別の言葉で言えば、一定の戦場に一定の時間、一定の量の弾を流しつづけるという発想である。そしてこれは鉄砲の使い方としては、まさに最先端の使い方であった。西洋でこの戦法が意識的に採用されるには、実に第一次大戦の末期、実質上のドイツ参謀総長であったルーデンドルフが西部戦線で実行するまで約350年待たなければならなかった」(以下略) もちろん、第一次大戦のドイツ軍の鉄砲・機関銃の数と長篠の戦における鉄砲の数と性能は比べようもない。だが意識的に一定戦場に一定の時間一定の量の弾を流しつづけるという発想法は世界史的にみても信長によって始められたと言ってよい。」 さらに軍事史研究の世界的権威でイェール大学教授J・パーカーは、彼の著書「長篠合戦の世界史」の中でヨーロッパ人が銃の装填のし直し時間を短縮するのに努力を重ねたのに対し、日本人は命中度を上げることに専心したと述べています。 信長のこの戦法も三千丁の鉄砲が自分の手に入っていたからこそ可能になった戦法です。当時ヨーロッパでも、一つの戦場で三千丁も鉄砲が使われた例はないと思います。信長方だけで三千丁で、敵の武田方でも当然鉄砲を使っていました。しかし武田方は自慢の騎馬隊を頼りにしすぎたため、使用した鉄砲の数は少なかったと言われています。それでも両軍あわせて三千丁以上の鉄砲が一つの戦場で使用されたのです。鉄砲と言えば当時は世界の最新兵器です。 鉄砲が種子島に伝わってからわずか30年後には、日本はその最新兵器の大変な量産国になっていたのです。鉄砲を使用するには、弾がなければなりません。弾の原材料は鉛です。ところが鉛は日本では産出しません。そのため各大名は、鉛の輸入に必死でした。その鉄砲の弾が、1619年オランダ人の日本からの買い付け品目の報告書には、鉄砲の弾、11、696発と記載されているのです。早くも鉛の原料輸入から製品として輸出に向けられているのです。 長篠の戦に勝った信長は、1578年には、自分が作らせた七艘の鉄船、鉄張りの船を使用して、瀬戸内海の制海権を握る敵を海戦で勝ちをおさめています。鉄張りの船、鉄船は、世界最初の出現です。戦いが終わって堺港に入港すると、鉄船の噂を聞いて見物人がわんさとおしかけて、皆びっくりしたと言われています。その見物人の一人の日記には「堺の浦へ近日伊勢から大船が調達されてきた。船は横七間(一間は約1.8メートル)、縦は十二,三間もあって、鉄張りの船である。これは鉄砲が貫通せぬ用意であって、まことに仰々しいことであった。大阪へ廻航して敵の通路を妨害するためのことである。」と書かれています。 鉄船出現前、信長が毛利水軍と戦った時、火矢を打ち込まれ船内が火事になり毛利軍に大敗しました。そのため鉄張りの船を開発したと言われています。鉄船がヨーロッパで採用されたのは18世紀にはいってからです。ポルトガル人でカトリック・イエズス会の宣教師、ルイス・フロイスは、織田信長に会い、1569年6月1日付けで信長の印象をローマに報告しています。 「この尾張の王は、年齢37歳なるべく、長身痩躯、髯(ひげ)すくなし、声ははなはだ高く、ひじょうに武技を好み、粗野なり。正義および慈悲の業をたのしみ、傲慢にして名誉をおもんず。決断を秘し、戦術にたくみにしてほとんど規律に服せず、部下の進言にしたがうこと稀なり。かれは緒人より異常なる畏敬を受け、酒を飲まず、みずから奉ずることきわめて薄く、日本の王侯をことごとく軽蔑し、下僚に対するごとく肩の上よりこれに語る。 緒人は至上の君に対するがごとくこれに服従せり。よき理解力と明晰なる判断力を有し、神仏その他偶像を軽視し、異教いっさいの占いを信ぜず、名義は法華宗なれども、宇宙の造主なく、霊魂の不滅なることなく、死後なにごとも存せざることを明らかに説けり。その事業は完全にして巧妙をきわめ、人と語るにあたり、紆余曲折をにくめり」、となかなか的をいた人物評です。 神仏その他の偶像を軽視し、占いも信用せず、魂や霊もなく死んだらそれで終わりという考え方は、当時としては全く常識では考えられなかったのではないでしょうか。信長のこの考え方にうそ、いつわりがない証拠を見せたのが、フロイスのこの報告書の二年後、1571年に敵対する比叡山の延暦寺を焼き打ちにしたことです。僧侶、信徒など多数殺し、800年の伝統をもつお寺をことごとく焼き尽くし、お寺のひとかけらも残さないほど徹底したものでした。 これを知った当時の人たちが仰天したのも当然です。信長が生きていた時代の彼の無神論と比叡山焼き討ちの行為は、現代では通用しますが、当時の常識を超越したものであったことはまちがいないでしょう。この天才肌の信長は、自分の腹心の武将、明智光秀の裏切りにあい、満48歳で死んでしまいます。その後の日本の歴史にとって全くおしまれる早死にでした。 ブログランキングに参加しています。応援クリック御願いします。
外国映画でも日本映画でもそうなのですが、大きな賞をもらったからと言って必ずしも良い映画とはかぎりません。数年前ヴェネツィア国際映画祭で受賞したビートタケシ主演の「HANA-BI」、カンヌ映画祭受賞の役所広司主演の「うなぎ」など賞に値する映画ではありませんでした。 今回、アメリカのアカデミー賞をもらった「おくりびと」、確かに賞に値するいい映画ですね。悲しい題材を扱っているにもかかわらず、前半はけっこう笑いもありますし万人受けする良い映画でした。 私はウイークデイに見たせいか、私も含めて老人客がほとんどでした。いずれ皆さん、自分の死に直面するからでしょう。私はこの映画で納棺師という仕事があるのを初めて知りました。私は年寄りですが、いままでに納棺師が携わった葬式に出くわしたことはありません。都会生まれ、都会育ちで貧乏人だったからでしょうか。 今でも地方に行けば随所で納棺師が活躍しているのでしょうか。どなたか知っている人がいたら教えてください。滝田洋二郎監督は、この作品で一躍有名人になりましたが、監督なりたての頃からずっとポルノ映画ばかり作っていた人です。「痴漢女教師」、「痴漢電車」(もっと続けて)、「官能団地」(上つき下つき刺激つき)、「痴漢電車」(ルミ子のお尻)、「OL24時、媚娼女」、などなど合計30本はあります。 ただしこの「おくりびと」の前に「壬生義士伝」という素晴らしい映画を製作しています。新撰組の一隊士の一生を描いたものです。まあ滝田監督というのは、けちをつける気はありませんが、ポルノ映画で活躍していた女優が、ある映画で主演女優賞を獲得して一躍スター女優になったのと似ているとも言えないこともありません。 「悼む人」は、作家、天道荒太氏が書いた小説で、直木賞を受賞し、現在ベストセラーになっています。この本のあらましは、ある青年が、新聞の死亡記事から、事故や事件で人が亡くなった場所を知り、その場で行き「悼む」ことを続けている。「悼む」こととはどういうことか言うと、死亡現場を訪れ、死者をよく知っている人を探しだし、次の三点を聞きだすのです。「死者は誰を愛したか、誰に愛されたか、どんなことで人に感謝されたか」を聞きだして、彼は死者にそのことを語りかけて悼むのです。 新聞の死亡記事を見ると場所を選ばず「悼み」に出かけますから、全国を放浪することになります。彼には両親と一人の妹がいます。彼は会社を辞め、長い「悼み」の旅を続けている間に、彼には極秘にされていた母のガンが末期症状になっていた。妹は、婚約者がいていざ結婚という時に、兄が会社をやめ「悼み」旅行で長期不在、時々警察から両親託に本人確認の電話が入るなどして、兄の行く先不明などが災いして結婚話が流れてしまいます。しかし妹は、すでに身ごもり、一人で生むことを決心します。 本の結末は、彼が自宅に帰る頃には、母は亡くなり、妹には子供が産まれることを暗示して終わっています。とにかくこの本の特徴は、一人の青年が、極度に切り詰めた生活をしながら、自分の親族とは全く関係ない人たちの死に場所をおとずれては、「悼む」行為をし、旅を続けていることです。 「おくりびと」では納棺の儀式が、死者と家族の此の世の別れの儀式であり、また死者の死への旅立ちでもあります。「悼む人」は自分とは全く関係のない人の死を悼む、例え殺されても当然と思われた死者でも、「その人は誰を愛したか、誰に愛されたか、どんなことで人に感謝されえたことがあったか」を探り出して、そのことを死者に伝えて「悼む」行為をする。作者は、人間の死すべてに何らかに意義を認め、無駄な人生というものはないということを主張したかったのでしょう。 映画「おくりびと」や小説「悼む人」に描かれていない死者の世界があります。それは死者への感謝の気持ちです。読者の皆さんには、特に死者に感謝したい特別な人がいるのではないでしょうか。私には特に感謝したい死者がいます。それは母です。終戦直後、父は当時死の病と言われた重症の結核患者でした。自宅を空襲で消失してしまい、貧乏のどん底でした。大変な食糧難だった。今でもはっきり覚えているのは、おやつがわりに新聞紙の切れ端に少し山盛りお砂糖をもらい舌なめずりしていたことです。 母が、「お母さんは、もうお腹いっぱいだから、お前、お母さんの分も食べてもいいよ」。子供の私はその言葉を信じて、母の分までむさぼり食べていたのです。しばらくしてから私は、私に少しでも余計に食べさせようと、自分の食べる分を私にくれていたことを悟りました。その母は、戦後の無理がたたり71歳で早死にしました。私は母の苦労をこの目で見てきただけに、私の母への感謝は言葉ではとても言い表せません。 皆さんにもこういう特別な死者への感謝というものがあると思います。と同時に日本人として特別に感謝しなければならない死者がいます。それは大東亜戦争で国のために戦って死んでいった日本軍人たちです。現在大東亜戦争で靖国神社の祭られているのは、合計2、133,915名の軍人です。 ところが現状の日本では、首相でさえ気軽に靖国神社にお参りできなくなってしまっているのです。なぜか。突然中国と韓国が、日本の首相の靖国参拝に文句をいいだしたからです。その上日本のマスコミや左翼系組織や左翼知識人が便乗して反対を唱えているからです。靖国問題の話をわかりやすく説明するために、大東亜戦争は侵略戦争であるという左翼主義者の主張を、私は100歩も1000歩も譲って同調しましょう。 コロンブスがアメリカ大陸を発見したといわれる1492年以来およそ500年間は、白人国家の有色人種国家への侵略が続いたことは、左翼主義者も当然同意するでしょう。 その侵略期間、白人国家のために闘った白人兵士や、兵士の指導者は、各白人国家に丁重に扱われていますよ。大東亜戦争という侵略戦争をした日本軍兵士や、兵士の指導者が丁重に扱われて当然でないでしょうか。 アメリカは、メキシコに侵略戦争をしかけ、メキシコの領土であった、現在のカリフォルニア州、テキサス州、ネヴァダ州、ユタ州、アリゾナ州を、アメリカの領土にしたのです。カリフォルニア州は、ほぼ日本列島と同じ広さ、テキサス州は、アラスカ州についで二番目の広さを持つ州です。この二つの州だけでも大変広い領土をメキシコからむしりとっているのです。 現在メキシコ政府は、アメリカ大統領に向かって一般兵士が眠っているアーリントンの国立墓地に参拝するなと抗議しているでしょうか。フィリピンは、スペインに侵略されてスペインの植民地になりました。その後スペインは、フィリピンからアメリカに追い払われ、フィリピンは、アメリカの植民地になりました。現在フィリピン政府は、スペイン政府やアメリカ政府にスペイン首相やアメリカ大統領に国立墓地にお参りするなと抗議していますか。 大事な事ですからもう一度主張します。白人国家は、侵略戦争をし続けてきましたが、その実行部隊である一般兵士や指導者は、自国のために戦ってくれたから死後も丁重に扱われています。だから大東亜戦争が例え侵略戦争でもあっても日本軍一般兵士も指導者も死後国が、丁重に扱っても当然ではないのですか。マスコミ、左翼組織、左翼知識人よ、私のこの論理に反論できるものなら反論してみろというのです。 大東亜戦争に参加した日本軍人は、アメリカ兵のようにありあまるほど充分な食料と武器弾薬を与えられて戦ったのではありません。貧乏小国ゆえ乏しい食料、乏しい武器弾薬などあらゆる不足に耐えしのびながら勇戦奮闘したのです。日本の繁栄は彼らのお陰でありまた、人類の世界史にも貢献しているのです。私は死者に向かって感傷的に言っているわけではありません。歴史的に説明ができるのです。それを負けたからと言って戦後即座に足げにしてきたのがあなた方、マスコミ、左翼組織、左翼知識人なのです。 中国や韓国が日本の首相の靖国参拝に文句を言ってきたのは、明らかに内政干渉なのです。ところがこの両国の主張に同調し、参拝しようとする日本の首相に批判するあなた方は、はっきり言って日本人に対する裏切り行為です。何年後か、何十年後か、もし中国が日本侵略を試みることがあったら(可能性は強い)、あなた方は中国の先鋒になり私たちの支配者になることは間違いない。あなた方は、現在間違いなく我々日本人の裏切り者であり国賊なのです。 最後に「おくりびと」の滝田監督や「悼む人」の作者、天童氏は、靖国神社をどう思っているのか想像してみよう。滝田監督53歳、天童氏48歳、二人ともほぼ同年輩、そして日教組の教えにどっぷりひたってきたのです。二人とも靖国神社には無関心でしょう。とくに天童氏の場合はその可能性は強い。なにしろ小説「悼む人」は、自分とはまったく関係のない人の死を「悼む」のが内容だからです。私の場合は、自分とは全く関係のない人の死を「悼む」となると大東亜戦争で亡くなった兵士になるからです。 滝田監督の場合は、恐らく首相の靖国神社参拝反対の立場なのではないでしょうか。なにしろ映画人には左翼が多いいからです。子供向けアニメの王様、あるいはアニメの「国民作家」とまで言われる人気絶頂の宮崎駿は、善良そうな人物に見えるでしょう、しかし彼の内面は危険人物です。共産主義思想から完全に抜け切っていないのだ。自著には共産主義の価値は少しも消えていないとか、朝日新聞には、「日本のやった戦争の処理もあいまいなまま、鉄砲を経済に代えて凶暴な経済成長を成し遂げた」と書いているし、共産党の機関紙、「赤旗」にイラストを無料提供したりしているのです。要注意人物です。いずれアニメにあまりにも偏りすぎた思想を反映するものが登場してくるのではないでしょうか。 私には、自分の肉親が靖国神社に祭られてもいませんし、自分の肉親が戦場で戦死もしていません。それでも首相の靖国神社参拝反対派は、私の敵であり、日本の敵です。絶対に仲良くつきあうことはありません。 ブログランキングに参加しています。応援クリック御願いします。
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